2014年03月26日
久根津 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる聞き取り調査。
久根津(くねつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、クヌィッ。
瀬戸内町の中心部、古仁屋から西へ、
県道79号線を15分ほど。
須手、手安と過ぎて3つ目の集落です。
集落入口の目印は、
高台にある「久根津大橋」。
欄干にある、
大きなクジラのレリーフがお出迎え。
通称「クジラ橋」とも呼ばれています。
かつて奄美唯一の捕鯨基地として栄え、
クジラは、集落のシンボル的存在です。
現在、久根津集落の人口は69人、33世帯。
(瀬戸内町役場町民課資料 平成26年2月末現在より)
養殖業会社があり若い住民も多く、
隣の集落の油井小中学校に通う子供もいます。
*
今回お会いしたのは、
大正11年生まれの久原ミスエさん。
なんと満92歳!
とってもお元気で、記憶力もよく
昔の久根津の様子をイキイキとお話ししてくださいました。
区長の久原章司さん(昭和30年生まれ)も
ご一緒してくださいました。
ミスエさんを中心にお伺いしたのは、
・集落の地名や山・川の名前
・戦後の青年団活動
・米軍統治下の食糧配給
・捕鯨基地のあった時代
・集落行事、料理や婦人会活動
などについて。
▲大正11年生まれの久原ミスエさん。
久根津生まれ・育ち。
内地に出た後、満州へ行き、
昭和22年にシマに引き揚げてきました。
その頃は、奄美群島が本土復帰する前の
米軍統治時代。
「あの時代の一番の楽しみは、
アメリカからの救援物資。
いつもリュック持って行って、
一日中行列に並んで。
羊肉の缶詰、メリケン粉、
アスパラガス(缶詰)もあの時初めて知ったし、
食べたことのないものをいつももらってました。
メリケン粉でうどん作って、
羊肉を入れたものは最高のごちそう。
もらったものの中では、
アイスクリームが一番美味しかったですよ。
食糧配給のあった夜の楽しかったことぉ~」。
また昭和22年頃は、
日本軍の飛行機もいくつか残っていたそう。
「クジラ橋(久根津大橋)の下に、
2台飛行機が置いてありました。
みんな飛行機からジュラルミンを取って、
いろいろなものを作りましたよ。
主人は、鍋やバケツ、水汲みなんか作ったり。
飛行機のパイプを取って作った火吹きは、
捨てきれないからまだ残っていますよ」。
と見せてくださった火吹き。
そして戦後、集落にやってきたのが
密航の捕鯨会社でした。
久根津に捕鯨基地があった時代は、
大きく分けて3回。
①大正元~10年 (1912~1921年)頃
②昭和20年代 戦後から奄美群島本土復帰前後
③昭和36~40年 (1961~1965年頃)頃
公的には、①と③の記録しかありませんが、
②の戦後には、米軍統治下だったため
内地から密航の捕鯨船が来て、
自由にクジラを獲っていた時代がありました。
大正11年生まれのミスエさんが記憶にあるのは、
戦後・昭和20年代のお話です。
「クジラが獲れて捕鯨船が外洋から戻ってくる時には、
古仁屋のあたりでサイレンを3回鳴らすんです。
風の向きによって久根津に聞こえてきたら、
もう包丁を研いで、
ティル(竹籠)を持って急いで海岸へ行く。
阿木名の人も山越えして来たり、
あちこちのシマから舟漕いで来てましたよ。
捕鯨船の乗組員は、内地の人。
クジラが獲れると、
解体処理の仕事などで集落の人も現金収入があった。
クジラの尾っぽに大きな縄をくびって、
久根津の人が十字の車を押して海岸に引き揚げていたんです」。
▲現在「奄美養魚」がある、外浜。
かつてクジラを引き揚げ、解体処理をしていた場所。
「捕鯨会社の人々が、
引き揚げたクジラを解体して、
肉を取ったら骨をどんどんそのへんに捨てていく。
捨てた骨にはまだいっぱい身がついているから、
私達はその肉をどんどん剥いでいく『骨ハギ』をするんです。
ティルにいっぱい入れても、
2~3回ぐらい通って持って帰るくらいありました。
取った肉は、冷蔵庫がなかったから塩漬けしたり、燻製にしたり。
いっぱい貯めて、私達のスタミナ源でしたよ。
あの時は親戚も増えました(笑)。
おこぼれをもらいたいからって、
よそのシマの人も来て「親戚、親戚」って言うから、
私も「ええ」ってクジラ肉を分けたり。
あの時の贅沢は、
はぁ~、もうちょっと想像もできないくらいですよね」。
その当時の様子を語る、
ミスエさんのうっとりとした表情。
集落が活気に満ち、輝かしい時代だった様子が
本当に伝わってきました。
*
また終戦後まもなく、何も慰安(娯楽)になるものがなかったので、
久根津の青年団は劇団を結成。
自分たちで脚本を書き、
演劇を近くの集落で披露したところ大好評!
古仁屋にあった映画館「アサヒカン」の舞台に上がったり、
久根津の劇団は他のシマジマで公演して回ったそうです。
その劇団で得た資金で公民館を建設。
当時、久根津は空襲で焼け野原だったため、
まずはみんなが集える場所を造らなければという青年団の思いです。
「久根津の劇団は本当に大人気。
漫才する人、当時珍しかったギターを弾く人など、
芸達者も多くて、
”久根津は演芸のシマ”って言われていましたよ」
▲現在の公民館。昔は「カイカン」と呼ばれていました。
その後、昭和49年、平成24年に建て替え。
また昭和2年までは、この場所に久根津尋常小学校がありました。
また、青年団が演劇で公民館を建てた時代には、
クジラと関連するエピソードも。
その当時、集落には、
クジラ内臓加工処理施設がありました。
捕鯨会社が捨ててしまうヒャッピロワタ(大腸)を
ただでもらってきて、大きな釜で茹でて処理。
それを古仁屋で売ると人気となり、
たいへんな集落の収入になったそうです。
この資金で、集落は公民館に畳を購入。
戦後、瀬戸内町内で一番最初に
公民館に畳を入れたのは久根津だとか。
「クジラ公民館」なんて言われたりしたそうですよ。
▲クジラの内臓加工処理施設があった親田原付近。
現在は、「民宿よーりよーり」がある場所。
*
昭和30年生まれの久原区長さんは、
クジラを獲っていた一番最後の時をハッキリと覚えているそうです。
「昭和36年、小学校入学の時で、
製糖の真っ最中だったけど、
クジラが入ったら子供たちはわぁーーと海岸へ行ってね。
空き缶を持っていって、骨についた肉をこそげ取って。
脂っぽいから、食べ過ぎてお腹壊したりしたよ(笑)」。
またクジラだけでなく、イルカにまつわるお話もありました。
昭和50年に開催された沖縄国際海洋博覧会のマスコット、
ミナミバンドウイルカのオキちゃん約15頭は、
この久根津の海で捕獲・訓練され、
沖縄へと空輸されました。
そのオキちゃん、
なんと5頭は現在も生存・活躍しています。
(2012年11月27日の「シンポジウム奄美のイルカ・クジラ2012」の報告より)
オキちゃんが訓練されている姿を見て、
久原区長さんは、海の仕事に就こうと思ったとおっしゃっていました。
資料には書かれていない久根津の様子を、
おふたりとも鮮明な記憶とともに語ってくださり、
その光景が目に浮かぶようでした。
*
後日、おふたりのお話をもとに、
集落の中をいろいろと記録。
公民館の前には、亀の形をした通称「カメイシ」。
▲目の前で見ると、本当に亀そっくり!
まわりにあるのは、チカライシと思われるもの。
公民館敷地にある半鐘。
▲昭和2年8月7日、昭和天皇行幸記念のもの。
昭和20年の空襲時の弾痕が残る。
公民館の横から山に向かってのびる道は「カネクミチ」。
▲豪商の永(ナガイ)家の道、永家が通る道と呼ばれていました。
かつてカネクミチのそばにアシャゲが。
ミャーには、アコウなどの大木。
子供たちの格好の遊び場。
集落の真ん中を通る道は、「ナハミチ・ナカミチ」。
かつて久根津には、
集落や一族の守り神であるゴンゲンが4ヵ所ありましたが、
どこも山の上。
集落の人々も年を取って登れなくなったため、
現在は、久根津神社1つに合祀しています。
集落東側の山「上当原(ウントバラ)」にあったのは
T家のゴンゲン。
集落西側、民家の後ろの山が「小佐原(コーシャ)」にあったのは、
H家のゴンゲン。
集落から見える久根津大橋付近が「浦(ウラ)」。
山にはかつてH家のグンギンがありました。
また日本軍の飛行機が残されていたのは、この橋の下あたり。
正面が久根津神社のある山「上山田(ウィヤマダ)」。
久根津神社の鳥居。
久根津神社社殿。
現在の集落全体の守り神で、
6~7年前にこの久根津神社1つに合祀。
▲石塔は、日露戦争の平和祈願として設置。
日露戦争へは、集落から3人が出兵。
「明治三十七八年 日露戦役 記念碑 祈奉神」と刻まれています。
久根津神社の参道は、海へとまっすぐ道が続いています。
何か意味があるのでしょうか?
覗いているのは防空壕の跡。
「小佐原(コーシャ)」にある山の麓、墓地の近くにありました。
コーシャ(小佐原)の麓の墓地には、
甕が土中に埋まったものも現存。
コーシャ(小佐原)山の麓には、
昔の墓地「スィス墓」が。
▲H家関係の墓で、すべて他の墓地に移されています。
スィス墓近くには、かつて「イジュミ(泉・湧き水)」がありました。
▲昔は綺麗な水がこんこんと湧いていたそう。
現在は囲いもないが、水はしみだしている状態。
「クラト墓」と呼ばれる、県道沿いにある集落の墓地。
集落の中を流れる久根津川は「フーコウ」。
久根津川の上流は、水も美しく
心地良い空間。
楽しそうに聞こえるクジラや食糧配給のお話も、
大変な思いの中での、ほんの少しの喜び。
戦中、久根津は2日間に渡って空襲を受け、
蔵当原と前田原は全焼。
大きな被害を受けました。
「戦争に一番加わったのは、自分たち大正9,10、11年生まれの世代。
ちょうど20歳くらいで、みんな戦争に徴兵された。
そして終戦後はみんな引き揚げてきて、本当に食べるものもなくて・・・」。
戦後は、山を開墾し、サツマイモばかりを植えてそれが主食。
それ以外は食べるものがほとんどない時代。
クジラとアメリカの救援物資のおかげで助かったとミスエさんは言います。
「私達の時代が一番苦しかったかも」。
我々などには想像もできない日々を過ごしてきた人の
重みのある言葉でした。
「なんといっても久根津は夕陽が一番きれいです」と久原区長さん。
捕鯨でにぎわった海岸や集落、
さまざまな歴史を想像しながら、、
美しい夕景を見に久根津に行くのもおすすめです。
*
ミスエさん、区長さん、
ご協力ありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編・歴史編」
・「わきやぁ島 久根津」
・「平成9年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町久根津」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 2014年1月21日(火)・23日(木)
調査集落 奄美大島 瀬戸内町 久根津(鹿児島県大島郡瀬戸内町久根津)
奄美.asia Y.K
久根津(くねつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、クヌィッ。
瀬戸内町の中心部、古仁屋から西へ、
県道79号線を15分ほど。
須手、手安と過ぎて3つ目の集落です。
集落入口の目印は、
高台にある「久根津大橋」。
欄干にある、
大きなクジラのレリーフがお出迎え。
通称「クジラ橋」とも呼ばれています。
かつて奄美唯一の捕鯨基地として栄え、
クジラは、集落のシンボル的存在です。
現在、久根津集落の人口は69人、33世帯。
(瀬戸内町役場町民課資料 平成26年2月末現在より)
養殖業会社があり若い住民も多く、
隣の集落の油井小中学校に通う子供もいます。
*
今回お会いしたのは、
大正11年生まれの久原ミスエさん。
なんと満92歳!
とってもお元気で、記憶力もよく
昔の久根津の様子をイキイキとお話ししてくださいました。
区長の久原章司さん(昭和30年生まれ)も
ご一緒してくださいました。
ミスエさんを中心にお伺いしたのは、
・集落の地名や山・川の名前
・戦後の青年団活動
・米軍統治下の食糧配給
・捕鯨基地のあった時代
・集落行事、料理や婦人会活動
などについて。
▲大正11年生まれの久原ミスエさん。
久根津生まれ・育ち。
内地に出た後、満州へ行き、
昭和22年にシマに引き揚げてきました。
その頃は、奄美群島が本土復帰する前の
米軍統治時代。
「あの時代の一番の楽しみは、
アメリカからの救援物資。
いつもリュック持って行って、
一日中行列に並んで。
羊肉の缶詰、メリケン粉、
アスパラガス(缶詰)もあの時初めて知ったし、
食べたことのないものをいつももらってました。
メリケン粉でうどん作って、
羊肉を入れたものは最高のごちそう。
もらったものの中では、
アイスクリームが一番美味しかったですよ。
食糧配給のあった夜の楽しかったことぉ~」。
また昭和22年頃は、
日本軍の飛行機もいくつか残っていたそう。
「クジラ橋(久根津大橋)の下に、
2台飛行機が置いてありました。
みんな飛行機からジュラルミンを取って、
いろいろなものを作りましたよ。
主人は、鍋やバケツ、水汲みなんか作ったり。
飛行機のパイプを取って作った火吹きは、
捨てきれないからまだ残っていますよ」。
と見せてくださった火吹き。
そして戦後、集落にやってきたのが
密航の捕鯨会社でした。
久根津に捕鯨基地があった時代は、
大きく分けて3回。
①大正元~10年 (1912~1921年)頃
②昭和20年代 戦後から奄美群島本土復帰前後
③昭和36~40年 (1961~1965年頃)頃
公的には、①と③の記録しかありませんが、
②の戦後には、米軍統治下だったため
内地から密航の捕鯨船が来て、
自由にクジラを獲っていた時代がありました。
大正11年生まれのミスエさんが記憶にあるのは、
戦後・昭和20年代のお話です。
「クジラが獲れて捕鯨船が外洋から戻ってくる時には、
古仁屋のあたりでサイレンを3回鳴らすんです。
風の向きによって久根津に聞こえてきたら、
もう包丁を研いで、
ティル(竹籠)を持って急いで海岸へ行く。
阿木名の人も山越えして来たり、
あちこちのシマから舟漕いで来てましたよ。
捕鯨船の乗組員は、内地の人。
クジラが獲れると、
解体処理の仕事などで集落の人も現金収入があった。
クジラの尾っぽに大きな縄をくびって、
久根津の人が十字の車を押して海岸に引き揚げていたんです」。
▲現在「奄美養魚」がある、外浜。
かつてクジラを引き揚げ、解体処理をしていた場所。
「捕鯨会社の人々が、
引き揚げたクジラを解体して、
肉を取ったら骨をどんどんそのへんに捨てていく。
捨てた骨にはまだいっぱい身がついているから、
私達はその肉をどんどん剥いでいく『骨ハギ』をするんです。
ティルにいっぱい入れても、
2~3回ぐらい通って持って帰るくらいありました。
取った肉は、冷蔵庫がなかったから塩漬けしたり、燻製にしたり。
いっぱい貯めて、私達のスタミナ源でしたよ。
あの時は親戚も増えました(笑)。
おこぼれをもらいたいからって、
よそのシマの人も来て「親戚、親戚」って言うから、
私も「ええ」ってクジラ肉を分けたり。
あの時の贅沢は、
はぁ~、もうちょっと想像もできないくらいですよね」。
その当時の様子を語る、
ミスエさんのうっとりとした表情。
集落が活気に満ち、輝かしい時代だった様子が
本当に伝わってきました。
*
また終戦後まもなく、何も慰安(娯楽)になるものがなかったので、
久根津の青年団は劇団を結成。
自分たちで脚本を書き、
演劇を近くの集落で披露したところ大好評!
古仁屋にあった映画館「アサヒカン」の舞台に上がったり、
久根津の劇団は他のシマジマで公演して回ったそうです。
その劇団で得た資金で公民館を建設。
当時、久根津は空襲で焼け野原だったため、
まずはみんなが集える場所を造らなければという青年団の思いです。
「久根津の劇団は本当に大人気。
漫才する人、当時珍しかったギターを弾く人など、
芸達者も多くて、
”久根津は演芸のシマ”って言われていましたよ」
▲現在の公民館。昔は「カイカン」と呼ばれていました。
その後、昭和49年、平成24年に建て替え。
また昭和2年までは、この場所に久根津尋常小学校がありました。
また、青年団が演劇で公民館を建てた時代には、
クジラと関連するエピソードも。
その当時、集落には、
クジラ内臓加工処理施設がありました。
捕鯨会社が捨ててしまうヒャッピロワタ(大腸)を
ただでもらってきて、大きな釜で茹でて処理。
それを古仁屋で売ると人気となり、
たいへんな集落の収入になったそうです。
この資金で、集落は公民館に畳を購入。
戦後、瀬戸内町内で一番最初に
公民館に畳を入れたのは久根津だとか。
「クジラ公民館」なんて言われたりしたそうですよ。
▲クジラの内臓加工処理施設があった親田原付近。
現在は、「民宿よーりよーり」がある場所。
*
昭和30年生まれの久原区長さんは、
クジラを獲っていた一番最後の時をハッキリと覚えているそうです。
「昭和36年、小学校入学の時で、
製糖の真っ最中だったけど、
クジラが入ったら子供たちはわぁーーと海岸へ行ってね。
空き缶を持っていって、骨についた肉をこそげ取って。
脂っぽいから、食べ過ぎてお腹壊したりしたよ(笑)」。
またクジラだけでなく、イルカにまつわるお話もありました。
昭和50年に開催された沖縄国際海洋博覧会のマスコット、
ミナミバンドウイルカのオキちゃん約15頭は、
この久根津の海で捕獲・訓練され、
沖縄へと空輸されました。
そのオキちゃん、
なんと5頭は現在も生存・活躍しています。
(2012年11月27日の「シンポジウム奄美のイルカ・クジラ2012」の報告より)
オキちゃんが訓練されている姿を見て、
久原区長さんは、海の仕事に就こうと思ったとおっしゃっていました。
資料には書かれていない久根津の様子を、
おふたりとも鮮明な記憶とともに語ってくださり、
その光景が目に浮かぶようでした。
*
後日、おふたりのお話をもとに、
集落の中をいろいろと記録。
公民館の前には、亀の形をした通称「カメイシ」。
▲目の前で見ると、本当に亀そっくり!
まわりにあるのは、チカライシと思われるもの。
公民館敷地にある半鐘。
▲昭和2年8月7日、昭和天皇行幸記念のもの。
昭和20年の空襲時の弾痕が残る。
公民館の横から山に向かってのびる道は「カネクミチ」。
▲豪商の永(ナガイ)家の道、永家が通る道と呼ばれていました。
かつてカネクミチのそばにアシャゲが。
ミャーには、アコウなどの大木。
子供たちの格好の遊び場。
集落の真ん中を通る道は、「ナハミチ・ナカミチ」。
かつて久根津には、
集落や一族の守り神であるゴンゲンが4ヵ所ありましたが、
どこも山の上。
集落の人々も年を取って登れなくなったため、
現在は、久根津神社1つに合祀しています。
集落東側の山「上当原(ウントバラ)」にあったのは
T家のゴンゲン。
集落西側、民家の後ろの山が「小佐原(コーシャ)」にあったのは、
H家のゴンゲン。
集落から見える久根津大橋付近が「浦(ウラ)」。
山にはかつてH家のグンギンがありました。
また日本軍の飛行機が残されていたのは、この橋の下あたり。
正面が久根津神社のある山「上山田(ウィヤマダ)」。
久根津神社の鳥居。
久根津神社社殿。
現在の集落全体の守り神で、
6~7年前にこの久根津神社1つに合祀。
▲石塔は、日露戦争の平和祈願として設置。
日露戦争へは、集落から3人が出兵。
「明治三十七八年 日露戦役 記念碑 祈奉神」と刻まれています。
久根津神社の参道は、海へとまっすぐ道が続いています。
何か意味があるのでしょうか?
覗いているのは防空壕の跡。
「小佐原(コーシャ)」にある山の麓、墓地の近くにありました。
コーシャ(小佐原)の麓の墓地には、
甕が土中に埋まったものも現存。
コーシャ(小佐原)山の麓には、
昔の墓地「スィス墓」が。
▲H家関係の墓で、すべて他の墓地に移されています。
スィス墓近くには、かつて「イジュミ(泉・湧き水)」がありました。
▲昔は綺麗な水がこんこんと湧いていたそう。
現在は囲いもないが、水はしみだしている状態。
「クラト墓」と呼ばれる、県道沿いにある集落の墓地。
集落の中を流れる久根津川は「フーコウ」。
久根津川の上流は、水も美しく
心地良い空間。
楽しそうに聞こえるクジラや食糧配給のお話も、
大変な思いの中での、ほんの少しの喜び。
戦中、久根津は2日間に渡って空襲を受け、
蔵当原と前田原は全焼。
大きな被害を受けました。
「戦争に一番加わったのは、自分たち大正9,10、11年生まれの世代。
ちょうど20歳くらいで、みんな戦争に徴兵された。
そして終戦後はみんな引き揚げてきて、本当に食べるものもなくて・・・」。
戦後は、山を開墾し、サツマイモばかりを植えてそれが主食。
それ以外は食べるものがほとんどない時代。
クジラとアメリカの救援物資のおかげで助かったとミスエさんは言います。
「私達の時代が一番苦しかったかも」。
我々などには想像もできない日々を過ごしてきた人の
重みのある言葉でした。
「なんといっても久根津は夕陽が一番きれいです」と久原区長さん。
捕鯨でにぎわった海岸や集落、
さまざまな歴史を想像しながら、、
美しい夕景を見に久根津に行くのもおすすめです。
*
ミスエさん、区長さん、
ご協力ありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編・歴史編」
・「わきやぁ島 久根津」
・「平成9年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町久根津」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 2014年1月21日(火)・23日(木)
調査集落 奄美大島 瀬戸内町 久根津(鹿児島県大島郡瀬戸内町久根津)
奄美.asia Y.K
Posted by 水野康次郎 at 15:06│Comments(0)
│瀬戸内町の集落
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