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2014年06月12日

小名瀬 シマ(集落)めぐり

瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる
聞き取り調査。

小名瀬(こなせ)集落の報告です。

シマグチでの呼び方は、クゥナスィ

昔から、地名としては「小名瀬」ですが
「ナデガマ・ナディガマ(名瀬釜)」とも呼ばれていました。

瀬戸内町の中心部・古仁屋から、
西の篠川方面へ。
県道79号線を約15分ほど。



▲集落入り口の干潟にはマングローブが形成されている


小名瀬集落は、人口15人、11世帯
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料)。

戦後の一番多い時には、
48世帯ありました。


盛んだった産業は、
戦前は枕木、戦後はパルプ材の出荷など林業。

昭和50年年代には真珠養殖会社ができ、
海の仕事へと移って行きました。

 *

お話をうかがったのは、
泉川義近さん(昭和23年生まれ、満66歳)。

現在は区長を務めており、
青年団長も20年ほど経験。




一部、林 忠志さん(昭和2年生まれ、満87歳)にも
参加していただきました。

うかがったのは、
・ ナナツバカにまつわる話
・ 信仰、ゴンゲン
・ 旧暦行事
・ シマの産業(林業、製糖、真珠養殖)
・ 他シマとの交流
などについてです。



小名瀬と言えば、
橋のたもとにある墓地「ナナツバカ」。
「ナナツガメ」とも呼ばれています。

諸説ありますが、
平家落人の云われもある墓。

最初は7つだったのが
無縁仏なども合わせ、
現在は12のカメが並んでいます。




もともと7つのカメは、
橋の近くの山に「コーエン」と呼ばれる場所にありました。

昔の人が、「この山が崩れる」と予言したために、
現在の場所に移されたそう。

移動したのは、泉川さんが小さいときで、
「60年ぐらい前ではないか」とのこと。

7つのカメを移動させて一週間ぐらい経った頃、
山のコーエンは崩れたそうです。


▲コーエン




集落には
毎年「トモチ」の日に
ナナツバカを祀る行事が。

※「トモチ」
奄美大島の旧暦八月を中心に行なわれる行事
アラセツ(旧暦八月初めの丙・ヒノエ)→シバサシ(アラセツから7日後の壬・ミズノエ)
→ロンガ・ドンガ(シバサシ後の甲子・キノエネの日)
→トモチ(ドンガから8日後の辛未・カノトヒツジ)



ミキと線香をナナツバカに供えたあと、
公民館に集まって
弁当を食べるなどしています。




以前は、子ども会が毎月掃除をしていましたが、
現在は婦人会が交代で清掃。

季節によっては、百合の花を供えたり、
集落のみなさんがとても大切にしていることがよく分かる
小名瀬のシンボル的存在です。



▲ウッコンコ(小名瀬川)。橋の右手が現在ナナツバカがある場所。左手の山がコーエン



戦前、小名瀬は瀬戸内町の中でも
広範囲に渡って山を所有していた集落だったそう。

山を1〜4区に分けて、
それぞれの区域を
伐採して良い「カイホウリン」と
伐採禁止の「タテヤマ」の期間を交互に設けて
順番に利用していました。

4区までは片道4時間ほどかかるため、
朝から出かけても帰りは夜に。
枕木を伐り出して、牛で引っ張って降ろしてきていました。



薪売りも貴重な現金収入。
朝、古仁屋に板付け舟で出かけると、
浜に元締めのような人が待っているので
その場で薪を販売していたそうです。

薪は、竹で直径30センチほどの輪っかを作り、
その中にぎゅうぎゅうに詰めたものが一つの単位。

次に販売に来る日にちや量などを
予約するやりとりも。

ラッキーなのは、
喜界島の舟が来ている時。

喜界島は山がなくて薪がとれないので、
小名瀬から積んでいった、
まるごと一艘分の薪を買ってくれたとか。

古仁屋に銭湯が何軒もあった時代は、
舟で小名瀬まで薪を買い付けに来ていた業者もありました。


▲県道79号線沿い

戦後は、現在の小名瀬バス停近くの県道付近が(県道が整備される前の時代)
パルプ基地に。

パルプ業者が7社ほど並んでいたそうです。

港が深いため、
木造100トンや鉄船200トンで
週に1回ほど小名瀬の港より積み出し。

人夫も篠川や久根津、
古仁屋などからも集まって働いていました。

木材は主に篠川から。
宇検村や住用村、瀬戸内町の節子集落からも木材が運ばれ、
積み出し港となっていました。



泉川さんの父親は、大正9年生まれの大工。
お住まいの家は、約50年ほど前に
父親と泉川さん2人で建てたもの。

床の間には、「セク(大工)の神」や
大工道具である墨壺なども祀って
旧正月の2日には、「セクの祝い」を行なっています。


▲床の間で祀っているセク(大工)の神



小名瀬湾では
戦後にカキ養殖、
昭和50年代から真珠養殖が行なわれ、
他集落からも働きに来るほど賑わったことも。

近年は、ナマコ養殖会社もありましたが、
現在はどれもなくなってしまいました。



▲字「摺勝」にある船着き場



現在、集落は
公民館を境に2つに分かれています。

かつては、1〜4班に分かれ、
十五夜豊年祭の中での相撲や踊り、競争などは
班対抗で行なっていました。

かつての1班あたり。別名「フルサト」



かつての2班あたり。別名「サト」



かつての3班あたり。別名は、不明。
この電柱前には、船着き場がありました。



県道から入ったすぐのあたりは、かつての4班。別名「ムコウ」。
終戦後は10数軒ありましたが、現在は1軒のみ。
田んぼや畑が多く、
そのほとんどがおとなりの阿鉄集落の人々が耕作していました。



現在の土俵の場所に、かつて公民館がありました。



土俵のそばには、自然石が祀られています。
石の呼び方は不明。
神月には線香をあげるなどしています。

ここにはかつて瀬戸内町内で
一番大きいと言われた松の木が3本ありましたが、
マツクイムシの被害で現在は1本のみになっています。



通称「公民館」は、正式には「小名瀬林業研修館」。
この敷地がかつてのミャー(広場)で、
アシャゲ・トネヤがあった所。



この林業研修館の背後から墓地の方向へ
カミミチが通っています。



個人宅と畑の間もカミミチが続き、
きれいに保たれています。



カミミチをたどっていると「石敢當」を発見。



擁壁と畑の間にも、カミミチが続いています。



集落の墓地。
かつては山の中にありました。




墓地から山の方へ進むと、湧き水「イジュミ」が。
残念ながら水は涸れています。

「昭和三年八月十八日」と刻まれていました。




墓地から擁壁づたいにカミミチを抜けたあたりは、
かつて塩炊き小屋が1軒あった場所。




この山の向こう側には阿室釜集落の字「白浜」が。
小名瀬と白浜の人々とは昔から仲がいいそう。
山の中にある電柱道を通って行き来をしていました。


小名瀬集落で引いている水道には、
白浜の海岸から運んだ砂を濾過に使用。
現在でも1年に3回ほどもらってきているとのことです。



製糖工場は、戦前は集落に2つ。

現在のバス停近くに1つ。
7〜8人の組合で利用していたそう。
最初は水車で、篠川集落寄りに「タミチ」と呼ばれる
溜め池から水路で水を引っ張り、水車を回転。
その後、ヤンマーディーゼルの動力に変わったそう。

もう1つは、泉川さんの祖父が所有していた製糖小屋。
泉川さん自身は、製糖小屋を見た記憶はないとのこと。
話として、畑や田んぼ、炭焼き窯などがあり、
馬を使っていたと聞いているそうです。

▲林道の途中にある製糖小屋のあった敷地



小名瀬を見守るのは「ゴンゲン」。
「グンギン」とも呼ばれています。

集落から少し離れており、
県道を篠川方面へ行く途中に鳥居が立っています。



この鳥居から急勾配の山道を登ったところに
さらに2つの鳥居があります。

泉川さんによると、
1つ目の鳥居は、誰でもくぐって良い鳥居。



さらに道を進むと右手には2つ目の鳥居が。
こちらは社守のみが通れる鳥居。

一般の人は左手から頂上へ行かなければならないとのこと。
十分にご注意ください。

▲2つ目の鳥居

小名瀬のゴンゲンは、
「未年生まれの人が管理しなければならない」との集落の決まりがあるそうです。

泉川さんの祖父が管理し、
その後は父親、
現在は、いとこで沖縄在住の女性が社守を務めています。

*

頂上には、自然石が祀られていました。

この場所は平家の見張り所との伝説があるように、
頂上からは眺めが良く
久慈湾や古仁屋方面も望むことも。

集落で年に一回清掃作業をし、
旧暦9月9日の「クガツクンチ」には、ミキなどを供えます。



昭和2年に生まれた林さんの世代は、
運動会や集落対抗行事がある時は、
朝早くにゴンゲンにわざわざ登って必勝祈願をしていたそうです。


ゴンゲンの神棚は、
泉川さん父親の代から
自宅の床の間に祀られています。




小名瀬の湾は奥深く、
細長い半島突端が集落の1番地であるアダンゲ(阿丹花岬)。
それに続くカツラガチやアティケなどは、
隣の阿鉄集落の人々などが耕作地を求め住んでいた土地です。




静かな入り江にある小名瀬。

県道沿いから見える海の深い青色、
新緑の季節には
小名瀬の山々は目にあざやかな黄緑色など
美しい風景を見せてくれます。

また平家落人やナナツバカなどの
神秘的な集落にまつわる伝説は、
興味がつきません。


小さな集落も訪れると、
さまざまな発見があり好奇心を刺激されますね。

林さん、泉川さん、
また小名瀬集落のみなさま
ご協力ありがとうございました!




<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「瀬戸内町の文化財を訪ねて」瀬戸内町教育委員会
・「瀬戸内町文化財保護審議会調査 小名瀬集落」



調査日:2014年2月26日(水)
奄美.asia調査員 Y.K



  


Posted by 水野康次郎 at 14:33Comments(0)瀬戸内町の集落