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2014年03月03日

須手 シマ(集落)めぐり

奄美大島・瀬戸内町内の集落での聞き取り調査。

須手(スデ)集落の報告です。

シマグチでの呼び方は、スィディ


須手は、瀬戸内町の中心部・古仁屋から西古見方面へ、
カーブをひとつ越えたすぐ隣りに位置。

古仁屋と隣接していますが、
実は約3.9キロ離れた手安(テアン)集落の小字「須手」で、
住所は、「瀬戸内町 手安○○番地」。

ですが、現在は須手単体の区長もたてられ、
一つの集落として機能しています。

須手の人口は、106人、世帯数57戸。
(瀬戸内町役場町民課 平成26年2月末資料より)



須手 シマ(集落)めぐり
▲須手には、数多くの戦跡が。
 

須手は、明治以来、
古仁屋や手安の人々が耕作地などを求めて移住してきました。

昭和16年の太平洋戦争勃発により、
須手には、「海軍航空隊古仁屋基地」が設置されることに。

全集落民は、昭和19年の初め頃までに
多くの私有財産を旧日本軍に強制買収され、
居住地を求めて移転を余儀なくされました。


そして戦争が終結。

旧日本軍の引き揚げと同時に、
よそへ移住した人達も
須手に戻ってくることに。

しかし、土地は国有地のまま。
旧地主という権利はまったくなし。

小作した人に希望によって優先権を与えて
土地は払い下げられることになったそうです。


その後、少しずつ戸数が増え、
手安との距離も遠く、行政連絡も大変な作業に。
昭和50年には須手自治会が発足。

都合により自治会活動は
一旦保留にされたりもしましたが、
時を経て、現在は1つの集落として活動しています。

 
 *  *


須手でお話をうかがったのは、
川畑一幸さん(昭和17年生まれ)。

川畑さんの祖父が
明治中期頃から須手に住み始めたとのこと。

まずは地図を見ながら、
集落の中で使われている地名や
川の名前、山の名前などを聞いていきました。

途中からは、同級生の東 繁文さん(昭和16年生まれ)も少し参加し、
さまざまなお話を聞かせてくださいました。

須手 シマ(集落)めぐり
▲真ん中が川畑 一幸さん、一番左は東 繁文さん。


川畑さんの表情がイキイキとし、
目の前に鮮やかにその状況が見えてきたお話が、
昔食べた豚肉の美味しさや、
同級生の東さんとのいたずら話など。


年末になると、須手の浜では
それぞれの家で飼っていた豚をつぶし、
正月用の料理としていました。

古仁屋の人たちも来て、
とてもにぎわっていたとか。

昔の島豚は、今と違ってもっと小さな豚。

各家で残飯などを食べさせて豚を飼い、
1年に1頭をつぶし、
みんなその大きさを自慢しあっていました。


須手 シマ(集落)めぐり
▲須手の浜。海岸線はずっとアダン並木だったそう。


つぶした豚は、塩漬けにしてカメ(壺)に入れて、
保存食として利用。

「塩漬けにした豚肉は、
今スーパーで売っているものとは違う。
ちょっと黄みがかっていて、
ちょっと腐った臭いもする。
とにかく塩辛いんだけど、あの豚が旨い!
あの白身なんかも最高だった」。

そう語る川畑さんは、うっとりしていて、
あぁ本当に美味しかったんだろうなぁと、
その表情から分かりました。

豚の血は、弁当箱に入れて炊いて
ゼラチンみたいになったものを食べてたりも。

お隣の喜界島で、
豚の血を使った料理があるのは有名ですが、
奄美大島でも、やはり食べていたんですね。

 *

また豚の血は、
つぶす時に血をバケツに取っておいて、
漁網を染めるのにも利用。

布に豚の血を含ませ、
その布で竹に張った漁網をなぞっていき染めていきます。
血を入れたバケツを片手に持ち、
何度も往復させ、強度を保っていたそうです。


須手 シマ(集落)めぐり


また川畑さんの記憶で、昭和24、25年頃に、
いまの東京大学医科学研究所 奄美病害動物研究施設から瀬戸崎の間でしていたのが、
ヤシ(キビナゴ)の追い込み漁。

板付け舟に網を積み込み、
ヤシが寄ってきた時に舟で囲む。
そこを浜で待ち構えていた20~30人が、
網で引っ張って捕獲。

手伝っていたのは、
子供から大人まで。

浜で塩水に漬けて
そのまま刺し身にして食べたり、
いっぱい獲れたらソーケ(ザル)に入れてもらって帰っていたそうです。

また川畑さんのお父さんは、
舟を持っていたTさんと一緒に、
松明を積んでガティン(アジ)を獲ったりも。

帰ってくるのを浜で待っていて、
ガティン汁にして食べるのがとても楽しみだったとか。

「食べ物がない時代だったから、
 あのガティン汁なんて最高だった」と、川畑さん。


いろいろな光景が須手の浜では、
見られていたんですね。


 * 

川畑さんに聞いた、
須手に残る
岩穴「イヤンヤ」の伝説の場所を訪ねてみました。


須手 シマ(集落)めぐり
▲集落西側にあるイヤンヤ又原あたり。擁壁の後ろに岩穴「イヤンヤ」が。


イヤンヤへの道は、
雑草や木が生い茂っていて険しかったので、
今回は、勇気ある男性調査員たち3名が探検調査。


須手 シマ(集落)めぐり
▲イヤンヤ入口。中の広さは4畳ぐらい。入口は狭く、約1m20cmほど。
大人だと屈んで入るくらい。


このイヤンヤには、
以前は、頭蓋骨や刀などが無数あったと言います。

由来には諸説ありますが、
源平合戦後、平家の落人がここに流れ、
この岩穴に隠れていました。

雌鶏は鳴かないというので飼っていたところ、
ある日、その雌鶏が鳴いてしまいます。

居場所が追っ手にばれて捕まり、
落人たちは隠れていた岩穴のなかで
全員殺されてしまいました。

それ以来、須手では鶏を飼わないことになった、
との言い伝えが残っています。

(現在は、雌雄や品種に関係なく飼われているそうです)


須手 シマ(集落)めぐり
▲イヤンヤ内部から入口・外を見る。


川畑さんは、子供の頃にこのイヤンヤを見に行こうとしたところ、
父親に見つかってしまい「絶対に行くな」と怒られたことも。


須手 シマ(集落)めぐり
▲この時も、何かを祀るときに使っていたと思われる
花瓶なども落ちていました。


須手 シマ(集落)めぐり
▲約20cmの骨。人骨?それとも動物の骨?


 * *

ほかにも集落を歩いて回ってみました。



埋め立て地「須手二本松公園」
須手 シマ(集落)めぐり

須手二本松公園の県道を挟んで向かいあたりが
「アンガキバル」と呼ばれるところ。
須手 シマ(集落)めぐり
▲左への道は、旧道で現在は家があるため、通りぬけできなくなっている。



JAあまみ大島事業部「瀬戸内家畜市場」。
二カ月に一度、子牛セリ市が開催されます。
須手 シマ(集落)めぐり


須手 シマ(集落)めぐり
▲旧道にある橋の名残。

須手 シマ(集落)めぐり
▲須手公民館。新しいですね。


須手には、瀬戸内町で唯一の酒蔵「天海の蔵」があります。

沖縄がルーツで、名瀬に泡盛の酒造場を開いた
西平家より分家した創業者が、
昭和25年に、泡盛の酒造場を開いたのが始まり。
須手 シマ(集落)めぐり
▲黒糖焼酎「天海」、「瀬戸の灘」「加計呂麻」などを作っている。
こちら海上飛行場の滑走路付近。


須手の海岸は、奥に進むと白砂が長く続きます。
ウミガメの産卵も2012年確認されました。
須手 シマ(集落)めぐり



須手 シマ(集落)めぐり
▲海岸沿いにある墓地。


須手 シマ(集落)めぐり
▲骨壷にコンクリートの板で蓋をした古いタイプのお墓。もともとは、平たいサンゴで蓋をしていた。

 * *


先にも述べたように、
昭和16年、須手一帯は土地をすべて買収され、
「海軍航空隊古仁屋基地」が設営されました。


沖合が海上飛行場となり、
この地から水上爆撃機「瑞雲」が飛び立ちます。

揚陸用の滑走路が設けられ、
山手には、敵の攻撃から航空機を守るための格納庫である掩体壕(えんたいごう)が。

もちろん指揮所や兵舎、地下弾薬庫、防空壕など
さまざまな施設が配置されました。


「海軍航空隊古仁屋基地跡」の碑が立っているあたりは、
かつては岬で、「アンガク」と呼ばれています。
須手 シマ(集落)めぐり


須手 シマ(集落)めぐり
▲「海軍航空隊古仁屋基地跡」平成三年九月 瀬戸内大正会建とあります。



須手 シマ(集落)めぐり

▲集落西の海岸沿いにある東京大学医科学研究所奄美病害動物研究施設」。
昭和41年に設立。


東大医科研の施設の裏手あたりに、海軍の海上飛行場がありました。
須手 シマ(集落)めぐり


戦後、武装解除によって、
須手の沖で特攻艇「震洋」も爆破されました。
須手 シマ(集落)めぐり
▲「震洋」の残骸が、10年ほど前まで岩の上にあったそう


須手 シマ(集落)めぐり
▲上記写真の先端部分にあったもの。
中心部が繰り抜かれ、何かの木の柱の根元が残っていた





須手には多くの戦跡が。
こちらは、個人のお宅の裏手にある
海軍航空隊古仁屋基地施設の入口。強固な作り。
須手 シマ(集落)めぐり


須手 シマ(集落)めぐり
▲上記写真の右側の穴から入り、左方向を見た様子。
中は浸水している


須手 シマ(集落)めぐり
▲別の方のお宅にある軍施設の入口。家の方によると、
中には12畳ぐらいある部屋があるそう。コウモリが多く住み着いている。




平成6年には、「須手集落由来誌」も作られ、
明治からの集落にまつわる話が記されています。
新しい集落ながら、
自分の住むシマを大切にしたい気持ちの現れですね。

歴史に翻弄されてきた、
須手に住む人々。

手安集落の伝統など受け継ぎ、
須手の人々の手で
瀬戸内町で56番目の一番新しい集落として、
新たな歴史を築いていっています。









調査日 : 2013年12月6日(金) 晴
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 須手(鹿児島県大島郡瀬戸内町大字手安須手)


< 参考資料 >
・「須手集落由来誌」 編集者 堀末雄
・「平成9年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町須手 」
・「瀬戸内町誌 民俗編」





奄美.asia 調査員 Y.K












































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Posted by 水野康次郎 at 10:22│Comments(1)瀬戸内町の集落
この記事へのコメント
はじめまして。大変興味深いブログですね。拝見しているうちに、昔エストニアとチェコで知りあいになった奄美出身の大学生のことを思い出しました。
フィンランド語や勝浦や川内の地名由来についてバーで飲みながら語った記憶がよみがえります。
いつか奄美大島を旅してみたいと思います。
愛知県S
Posted by S at 2014年03月09日 00:24
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