2014年05月28日
阿鉄シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる聞き取り調査。
阿鉄(あでつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、アディティ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
県道79号線を篠川・宇検村方面へ車で約15分。
人口は59人・31世帯
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料より)。
目の前の阿鉄湾は
入り組んだリアス式海岸で波穏やか。
台風時には格好の避難港として
多くの船舶がやってきます。

▲集落の中心に阿鉄川が流れ、川沿いに家々が奥まで並んでいる
お話をうかがったのは、
区長のご経験もある
長 則満(おさ・のりみつ)さん。
昭和5年生まれ、満84歳。
・ 小字の方言名、浜や岬、山の名前
・ 耕作地を求め移り住んだ場所
・ 漁業、待ち網漁
・ 行事、ミャーやトネヤの場所
・ 戦争時の様子
などを教えていただきました。

昔は阿鉄のことを「イキガチ」と呼んでいた時代も。
名前の由来などははっきりとしないようです。
また阿鉄集落の言葉は、
西古見集落と似ていると言われるそう。
集落間の交流があったのでしょうか?
かなり離れている集落ながら、
言葉が似ているとは不思議です。
*
かつて阿鉄は人口が多く、
集落だけでは土地が足りないために、
耕作地を求めて
さまざまな場所に移り住む時代がありました。
行き先は、油井や久根津、小名瀬集落、
マンドヤマなど。
隣の小名瀬集落の田んぼはほとんどが
阿鉄の人のもの。
長さんも小名瀬に田んぼを持ち、
牛に荷車を引かせて通っていたそうです。
また「果物のムラ」と呼ばれるほど、
パイナップル、タンカン、ポンカン、
温州みかん、パッションフルーツなど
四季折々のフルーツ栽培も盛んな集落でした。

▲手前が集落西側の岬「ナディヒジャ」。その奥に見えるのが小名瀬集落の半島で先端のほうにアティケやカツラガチがある
阿鉄から見える小名瀬集落の半島部分
「アティケ」や「カツラガチ」にも、
かつて阿鉄の人の家が
各1〜3軒(数は不明)ぐらいあったようです。
大人は畑仕事などをし、
子供を板付け舟で阿鉄まで送迎。
子供たちは、
阿鉄から峠を越えて油井まで歩いて学校に通学していました。
*
戦後、阿鉄は待網漁も盛ん。
阿鉄湾近辺でも5カ所ぐらいでやっており、
アティケやカツラガチでも行なわれていました。
待ち網は、
入り江に固定した網をまわして、
入り口だけ開けておき、
魚が入ってきたら網を閉じる漁。
ヤシ(キビナゴ)を
追いかけてくるカツオを狙います。
山の途中に見張り番たちがいて
カツオが入ってくるのを確認すると、
「イュガイッチャドォー!! ヒケー!ヒケー!」
(魚が入ったぞ、網を閉めろー!閉めろー!)と合図。
それを聞いて浜にいる人たちが
網を閉じてカツオを捕獲。

▲ナディヒジャの岬を過ぎたところから見た、水色の部分がアティケ。その左の岬を越えたとこがカツラガチ
この他に、アティケ・カツラガチの山の裏側にあたるサキノメにも
阿鉄の人の畑や
泊まるための小屋がありました。
早朝から板付け舟を漕いで、
女性一人でサキノメへ出かけていた人もいたそうです。
たくましいですね。
*
昭和5年生まれの長さん。
戦争当時のことも記憶は鮮明でした。
尋常高等小学校を卒業した4月、
阿木名集落まで山道を歩いて徴兵検査を受けに。
体が小さかったのもあり、
出征は免れました。
「 最初の空襲は、昭和19年10月10日。
朝、通学で油井の峠を越えて下りる時に、
西の方から飛行機が来て機関銃をバッーーーと撒いていった。
加計呂麻の海岸にはいっぱい船が泊まっていて、
須手にゲタバク(水上飛行機)もいた。
弟はその時、国民学校初等科の3年生(8,9歳)。
機銃掃射を見て
『にいちゃーーん、にいちゃーーん!』と怖がって叫んで。
2回目は、昭和20年3月1日。
このへんを低く飛んで、ものすごい空襲だった… 」。
*
長さんは、防空壕を掘る作業も参加。
油井岳には、敵が上陸してきた時のため、
集落民の避難場所として
防空壕を2カ所構築。
10m×10mぐらいの広さで、
高さは1m80cm〜2mぐらい。
中には丸太で柱や天井をめぐらせていました。
そこに配給のあった米などを保管。
油井岳には兵隊もいたので、
その人たちから盗まれないように
集落民で交代して
一晩泊まって見守りをしていたそうです。

▲阿鉄の海岸にあった壕。下に2本の線路のような鉄線跡が。戦跡?
またあまり知られていませんが、
阿鉄には、旧陸軍の特攻隊がいたことも。
隊長の山本陸軍大尉率いる
「海上挺進第29戦隊」、
隊員88名が約7ヵ月駐屯していました。
この特攻隊は広島県で編成され、
沖縄へ向け出発。
暴風雨のために沖縄航行が不能となり
急きょ阿鉄に基地を置くことに。
敵艦船攻撃に備えていましたが、
出撃は実現せず。
空襲で集落民が疎開して誰もいなくなった家々に、
いつの間にか特攻隊員が住んでいたそうです。
終戦から43年経った昭和63年6月、
山本隊長ら戦友会メンバー16人が
阿鉄集落にお礼をかねて訪れ、
公民館で住民との交流会が開かれました。
* *
それでは、長さんからうかがった話をもとに
集落内を見て回ります。
塩炊き小屋は海岸沿いに2軒ありました。
県道沿いの阿鉄橋の少し西側に1軒、
岬のナディヒジャ麓あたりの小字「浦」に1軒。

阿鉄川下流、西側の平地は
小字「大田袋(オオタブクロ・イフー・タブクロ)」。
その山側は、小字「脇田(ワキタ)」。
もともと阿鉄の豪農・岡家が住んでいて、
「トノチ」とも呼ばれていました。

▲「トノチ」と呼ばれていた場所
小字「城原(グスクバラ)」にある「厳島神社」。
代々岡家が祀ってきたと云われています。

社殿までの参道は
多少登りがきついのですが、
松並木や苔むす様子はとても風情がある神社。

神社祭りは旧暦9月6日。
昼に清掃、
夜は社殿で料理を楽しんだり、
演芸などをして過ごす。
7日の朝に、
神社からカミサマムチ(小さな餅)をいただく行事。
昔は、ものすごい人出で
一晩夜明かしてにぎわったそうですが、
現在は、夜11時ぐらいで終了するとのこと。

「瀬戸内町誌 民俗編」に、
夜通しで過ごす(通夜)ことを「トギ」と呼ぶと記述があったので
長さんに尋ねたところ、
「トギ」という言葉は覚えがなく、
「ティーヤ」と呼んでいるそうです。
時代が変わると、
行事の内容や呼称も変化していくもの。
他の方がどう呼んでいるかも
調査が必要ですね。
▲社殿背後にあった自然石

▲神社敷地から望む集落と阿鉄湾
神社からの帰りは、
社殿背後にある道から下ってみることに。
阿鉄小学校分校跡地や、
かつてミャーやアシャゲのある場所へと続く道でした。

▲社殿背後からの下り道も美しく保たれている
厳島神社の麓には、
「阿鉄小学校・分校」の跡地があります。
明治20(1887)年頃、阿鉄簡易小学校が開校。
昭和3(1928)年、阿鉄尋常小学校と久根津尋常小学校が統合し、
油井尋常高等学校が新設されました。
そのため阿鉄の学校は、
油井国民学校分教場や油井小学校阿鉄分校となりましたが、
昭和36年に閉校になったという歴史があります。
集落のかたがたの学校を残したかった想いは、
非常に強かったようです。

▲「阿鉄小学校分校跡地」の碑
集落の奥、阿鉄川より東側は、
家のあるあたりが小字「中惣原(ナカソツバラ)」、
山は小字「惣原(ソツバラ)」。
惣原(ソツバラ)は「カミヤマ」とも呼ばれています。

惣原(ソツバラ)には、
かつて水汲み場のソーツ(泉)がありましたが、
現在は使用されていません。
その名残でしょうか?
水路がありました。

▲ソーツ(泉)があった山・惣原(ソツバラ)
阿鉄のミャー(祭りなどを行う広場)は、
移動を経て、現在の公民館前で3カ所目。
集落で一番最初にミャーなどがあったのは、
中惣原(ナカソツバラ)の空き地だったと、
長さんは親から聞いていたそう。
ただし、長さんが物心ついた時には
何も残っていませんでした。

▲一番最初にミャーがあった中惣原の空き地
長さんが覚えており
行事にも参加していたのは、
2番目にミャーやアシャゲ、土俵などがあった場所。
現在の小学校跡地近く、
消防車庫がある広場です。
ここには公民館の役割を持つ「シュウカイジョ」もあり、
十五夜豊年祭など行事などをしていました。

▲2番目にミャーがあった場所。「フルミャー・フンミャー」とも呼ばれる。かつてアカギの木は3本あったが、現在は1本のみ
「この場所でやっていた時代の
十五夜豊年祭は盛大で、
前に流れる川の上まで舞台を張り出して作っていた」と長さん。
十五夜豊年祭の時には、
惣原(ソツバラ)の麓にある家で
力士はまわしをつけて、
そこから「ヨイヤー!、ヨイヤー!」と言いながら
このミャーの土俵まで歩いてきていたそうです。

▲惣原の麓にある力士達がまわしをつけていた家
昭和30年になって、
現在の場所にミャーや土俵、公民館が移転。
公民館は、当時不要となった
久慈小学校の教室を払い下げてもらい、
それをばらして
阿鉄で再び組み立てた建物を使用したそう。

▲三カ所目のミャー。公民館は昭和30年にここへ移動し、昭和57年に改築
ここで養蚕もしていた
牛舎の近く、阿鉄川上流の小字「神田(カミジャ)」には、
動力の製糖小屋がありました。

阿木名へ続く旧道は、
小字「阿木名道原(アクニャミッチ)」。

小字「泉(イジュミ)」の山の麓には、
防空壕の跡が。

阿鉄郵便局

公民館と郵便局の間の敷地には、
カンヒザクラと「寒緋桜の碑」。
「奄美の千本桜」と題した歌詞が刻まれていました。

耕作地を求めて
他集落にも畑などを所有するなど
阿鉄の方々は開拓精神にあふれ、働き者。
昭和30年代には阿鉄〜古仁屋を結ぶ
定期船「みくに丸」に“女船長”さんがいて、
当時有名になったこともあったそうです。

調査にうかがったのは2月下旬。
お話をうかがった長さんも、
80代半ばながら
タンカン出荷で忙しいなかで、
対応していただきました。
また「果物のムラ」として
呼ばれる日が来るといいですね。
長さん、阿鉄集落のみなさん
ご協力ありがとうございました!
*
個人的には、厳島神社の参道や境内が、
とても趣があって
散策におすすめです。

▲調査も終わり帰ろうとすると虹がくっきり!
<参考文献>
・「阿鉄集落の伝承を訪ねて」大山英信
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「瀬戸内町文化財保護審議委員会 平成9年度現地調査 旧古仁屋町阿鉄集落」
・「南海日日新聞 平成6年7月11日記『戦後50年語り継ぐあの体験』」
調査日:2014年2月20日(木)
奄美.asia 調査員 Y.K
阿鉄(あでつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、アディティ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
県道79号線を篠川・宇検村方面へ車で約15分。
人口は59人・31世帯
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料より)。
目の前の阿鉄湾は
入り組んだリアス式海岸で波穏やか。
台風時には格好の避難港として
多くの船舶がやってきます。
▲集落の中心に阿鉄川が流れ、川沿いに家々が奥まで並んでいる
お話をうかがったのは、
区長のご経験もある
長 則満(おさ・のりみつ)さん。
昭和5年生まれ、満84歳。
・ 小字の方言名、浜や岬、山の名前
・ 耕作地を求め移り住んだ場所
・ 漁業、待ち網漁
・ 行事、ミャーやトネヤの場所
・ 戦争時の様子
などを教えていただきました。
昔は阿鉄のことを「イキガチ」と呼んでいた時代も。
名前の由来などははっきりとしないようです。
また阿鉄集落の言葉は、
西古見集落と似ていると言われるそう。
集落間の交流があったのでしょうか?
かなり離れている集落ながら、
言葉が似ているとは不思議です。
*
かつて阿鉄は人口が多く、
集落だけでは土地が足りないために、
耕作地を求めて
さまざまな場所に移り住む時代がありました。
行き先は、油井や久根津、小名瀬集落、
マンドヤマなど。
隣の小名瀬集落の田んぼはほとんどが
阿鉄の人のもの。
長さんも小名瀬に田んぼを持ち、
牛に荷車を引かせて通っていたそうです。
また「果物のムラ」と呼ばれるほど、
パイナップル、タンカン、ポンカン、
温州みかん、パッションフルーツなど
四季折々のフルーツ栽培も盛んな集落でした。
▲手前が集落西側の岬「ナディヒジャ」。その奥に見えるのが小名瀬集落の半島で先端のほうにアティケやカツラガチがある
阿鉄から見える小名瀬集落の半島部分
「アティケ」や「カツラガチ」にも、
かつて阿鉄の人の家が
各1〜3軒(数は不明)ぐらいあったようです。
大人は畑仕事などをし、
子供を板付け舟で阿鉄まで送迎。
子供たちは、
阿鉄から峠を越えて油井まで歩いて学校に通学していました。
*
戦後、阿鉄は待網漁も盛ん。
阿鉄湾近辺でも5カ所ぐらいでやっており、
アティケやカツラガチでも行なわれていました。
待ち網は、
入り江に固定した網をまわして、
入り口だけ開けておき、
魚が入ってきたら網を閉じる漁。
ヤシ(キビナゴ)を
追いかけてくるカツオを狙います。
山の途中に見張り番たちがいて
カツオが入ってくるのを確認すると、
「イュガイッチャドォー!! ヒケー!ヒケー!」
(魚が入ったぞ、網を閉めろー!閉めろー!)と合図。
それを聞いて浜にいる人たちが
網を閉じてカツオを捕獲。
▲ナディヒジャの岬を過ぎたところから見た、水色の部分がアティケ。その左の岬を越えたとこがカツラガチ
この他に、アティケ・カツラガチの山の裏側にあたるサキノメにも
阿鉄の人の畑や
泊まるための小屋がありました。
早朝から板付け舟を漕いで、
女性一人でサキノメへ出かけていた人もいたそうです。
たくましいですね。
*
昭和5年生まれの長さん。
戦争当時のことも記憶は鮮明でした。
尋常高等小学校を卒業した4月、
阿木名集落まで山道を歩いて徴兵検査を受けに。
体が小さかったのもあり、
出征は免れました。
「 最初の空襲は、昭和19年10月10日。
朝、通学で油井の峠を越えて下りる時に、
西の方から飛行機が来て機関銃をバッーーーと撒いていった。
加計呂麻の海岸にはいっぱい船が泊まっていて、
須手にゲタバク(水上飛行機)もいた。
弟はその時、国民学校初等科の3年生(8,9歳)。
機銃掃射を見て
『にいちゃーーん、にいちゃーーん!』と怖がって叫んで。
2回目は、昭和20年3月1日。
このへんを低く飛んで、ものすごい空襲だった… 」。
*
長さんは、防空壕を掘る作業も参加。
油井岳には、敵が上陸してきた時のため、
集落民の避難場所として
防空壕を2カ所構築。
10m×10mぐらいの広さで、
高さは1m80cm〜2mぐらい。
中には丸太で柱や天井をめぐらせていました。
そこに配給のあった米などを保管。
油井岳には兵隊もいたので、
その人たちから盗まれないように
集落民で交代して
一晩泊まって見守りをしていたそうです。
▲阿鉄の海岸にあった壕。下に2本の線路のような鉄線跡が。戦跡?
またあまり知られていませんが、
阿鉄には、旧陸軍の特攻隊がいたことも。
隊長の山本陸軍大尉率いる
「海上挺進第29戦隊」、
隊員88名が約7ヵ月駐屯していました。
この特攻隊は広島県で編成され、
沖縄へ向け出発。
暴風雨のために沖縄航行が不能となり
急きょ阿鉄に基地を置くことに。
敵艦船攻撃に備えていましたが、
出撃は実現せず。
空襲で集落民が疎開して誰もいなくなった家々に、
いつの間にか特攻隊員が住んでいたそうです。
終戦から43年経った昭和63年6月、
山本隊長ら戦友会メンバー16人が
阿鉄集落にお礼をかねて訪れ、
公民館で住民との交流会が開かれました。
* *
それでは、長さんからうかがった話をもとに
集落内を見て回ります。
塩炊き小屋は海岸沿いに2軒ありました。
県道沿いの阿鉄橋の少し西側に1軒、
岬のナディヒジャ麓あたりの小字「浦」に1軒。
阿鉄川下流、西側の平地は
小字「大田袋(オオタブクロ・イフー・タブクロ)」。
その山側は、小字「脇田(ワキタ)」。
もともと阿鉄の豪農・岡家が住んでいて、
「トノチ」とも呼ばれていました。
▲「トノチ」と呼ばれていた場所
小字「城原(グスクバラ)」にある「厳島神社」。
代々岡家が祀ってきたと云われています。
社殿までの参道は
多少登りがきついのですが、
松並木や苔むす様子はとても風情がある神社。
神社祭りは旧暦9月6日。
昼に清掃、
夜は社殿で料理を楽しんだり、
演芸などをして過ごす。
7日の朝に、
神社からカミサマムチ(小さな餅)をいただく行事。
昔は、ものすごい人出で
一晩夜明かしてにぎわったそうですが、
現在は、夜11時ぐらいで終了するとのこと。
「瀬戸内町誌 民俗編」に、
夜通しで過ごす(通夜)ことを「トギ」と呼ぶと記述があったので
長さんに尋ねたところ、
「トギ」という言葉は覚えがなく、
「ティーヤ」と呼んでいるそうです。
時代が変わると、
行事の内容や呼称も変化していくもの。
他の方がどう呼んでいるかも
調査が必要ですね。
▲社殿背後にあった自然石
▲神社敷地から望む集落と阿鉄湾
神社からの帰りは、
社殿背後にある道から下ってみることに。
阿鉄小学校分校跡地や、
かつてミャーやアシャゲのある場所へと続く道でした。
▲社殿背後からの下り道も美しく保たれている
厳島神社の麓には、
「阿鉄小学校・分校」の跡地があります。
明治20(1887)年頃、阿鉄簡易小学校が開校。
昭和3(1928)年、阿鉄尋常小学校と久根津尋常小学校が統合し、
油井尋常高等学校が新設されました。
そのため阿鉄の学校は、
油井国民学校分教場や油井小学校阿鉄分校となりましたが、
昭和36年に閉校になったという歴史があります。
集落のかたがたの学校を残したかった想いは、
非常に強かったようです。
▲「阿鉄小学校分校跡地」の碑
集落の奥、阿鉄川より東側は、
家のあるあたりが小字「中惣原(ナカソツバラ)」、
山は小字「惣原(ソツバラ)」。
惣原(ソツバラ)は「カミヤマ」とも呼ばれています。
惣原(ソツバラ)には、
かつて水汲み場のソーツ(泉)がありましたが、
現在は使用されていません。
その名残でしょうか?
水路がありました。
▲ソーツ(泉)があった山・惣原(ソツバラ)
阿鉄のミャー(祭りなどを行う広場)は、
移動を経て、現在の公民館前で3カ所目。
集落で一番最初にミャーなどがあったのは、
中惣原(ナカソツバラ)の空き地だったと、
長さんは親から聞いていたそう。
ただし、長さんが物心ついた時には
何も残っていませんでした。
▲一番最初にミャーがあった中惣原の空き地
長さんが覚えており
行事にも参加していたのは、
2番目にミャーやアシャゲ、土俵などがあった場所。
現在の小学校跡地近く、
消防車庫がある広場です。
ここには公民館の役割を持つ「シュウカイジョ」もあり、
十五夜豊年祭など行事などをしていました。
▲2番目にミャーがあった場所。「フルミャー・フンミャー」とも呼ばれる。かつてアカギの木は3本あったが、現在は1本のみ
「この場所でやっていた時代の
十五夜豊年祭は盛大で、
前に流れる川の上まで舞台を張り出して作っていた」と長さん。
十五夜豊年祭の時には、
惣原(ソツバラ)の麓にある家で
力士はまわしをつけて、
そこから「ヨイヤー!、ヨイヤー!」と言いながら
このミャーの土俵まで歩いてきていたそうです。
▲惣原の麓にある力士達がまわしをつけていた家
昭和30年になって、
現在の場所にミャーや土俵、公民館が移転。
公民館は、当時不要となった
久慈小学校の教室を払い下げてもらい、
それをばらして
阿鉄で再び組み立てた建物を使用したそう。
▲三カ所目のミャー。公民館は昭和30年にここへ移動し、昭和57年に改築
ここで養蚕もしていた
牛舎の近く、阿鉄川上流の小字「神田(カミジャ)」には、
動力の製糖小屋がありました。
阿木名へ続く旧道は、
小字「阿木名道原(アクニャミッチ)」。
小字「泉(イジュミ)」の山の麓には、
防空壕の跡が。
阿鉄郵便局
公民館と郵便局の間の敷地には、
カンヒザクラと「寒緋桜の碑」。
「奄美の千本桜」と題した歌詞が刻まれていました。
耕作地を求めて
他集落にも畑などを所有するなど
阿鉄の方々は開拓精神にあふれ、働き者。
昭和30年代には阿鉄〜古仁屋を結ぶ
定期船「みくに丸」に“女船長”さんがいて、
当時有名になったこともあったそうです。
調査にうかがったのは2月下旬。
お話をうかがった長さんも、
80代半ばながら
タンカン出荷で忙しいなかで、
対応していただきました。
また「果物のムラ」として
呼ばれる日が来るといいですね。
長さん、阿鉄集落のみなさん
ご協力ありがとうございました!
*
個人的には、厳島神社の参道や境内が、
とても趣があって
散策におすすめです。
▲調査も終わり帰ろうとすると虹がくっきり!
<参考文献>
・「阿鉄集落の伝承を訪ねて」大山英信
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「瀬戸内町文化財保護審議委員会 平成9年度現地調査 旧古仁屋町阿鉄集落」
・「南海日日新聞 平成6年7月11日記『戦後50年語り継ぐあの体験』」
調査日:2014年2月20日(木)
奄美.asia 調査員 Y.K
2014年05月16日
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる
聞き取り調査。
篠川(しのかわ)・阿室釜(あむろがま)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、
篠川がシニョホ、阿室釜はアムルガマ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西のエリア、
車で県道79号線を宇検方面へ約20分。
三方を山に囲まれ、
穏やかな篠川湾に面して隣接する2つの集落です。
篠川の人口は149人・83世帯、
阿室釜の人口は47人・28世帯。
(瀬戸内町町民課2014年2月末現在資料より)

▲篠川湾に面する阿室釜集落と篠川集落
薩摩藩時代に多くの黒糖を献上した
芝家の本家跡や墓群も残っています。
明治時代には
大島高等小学西校や篠川農学校など
南大島の最高学府が設置された時代が。
また戦前から林業が盛んで、
タンカンも名産です。
*
篠川と阿室釜は区長がそれぞれいらっしゃり、
豊年祭などの行事は別々で行なっていますが、
協力しあい、風習や文化は同じということで
合同でお話をうかがうことができました。
元篠川区長の計 省三(はかり・しょうぞう)さんに
とりまとめをしていただき、
3人のみなさんに集まっていただきました。

写真左より、
積 ミヨ(せき)さん、<大正15年生まれ・満88歳> 摺勝
慶 節子(けい・せつこ)さん、<大正12年生まれ・満91歳> 阿室釜
登島治雄(としま・はるお)さん、<昭和2年生まれ・満87歳> 阿室釜
計 省三さん、<昭和14年生まれ・満75歳> 篠川
みなさんにおうかがいしたのは、
・ 集落小字の方言名、山や岬、浜の名前
・ 製材所や製糖工場などの場所
・ イザリの様子、灯り
・ 年中行事や信仰、神社
・ 宇検村への行き来
など、大正末期から昭和初期にお生まれになったみなさんのお話は、
とても興味深いものばかりでした。
*
篠川は山深く、
戦前から林業が盛んな集落。
篠川橋付近の海岸沿いには
昭和35年頃まで製材所が4つ並び、
そのまま船で枕木や薪として出荷。
阿室釜の「よねやま商店」横の空き地あたりには、
一番規模の大きいK製材所がありました。
このK製材所の横には、
製材所から出るノコンカス(おがくず)を燃料にした
塩炊き小屋も。
車が通らないので、
ノコンカスを道に広げて乾燥させていたそうです。

▲K製材所跡
*
製材所のない時代には、
山から伐り出した丸太を
ハツリと呼ばれる斧・鉞(まさかり)を使って、
角材にしていました。

▲計さんのお兄さん所有のハツリの刃。カバーはシュロ
計さんのお宅のオモテ(母屋)は
すべてハツリで伐り出した木材を使用。
マンドヤマから杉を伐り出し
篠川まで木材を運搬するのに、
各家庭では牛を飼育していました。
*
計さんのお宅の庭には
「イジュン(泉)」があり、
近所の人も飲み水の汲み場として利用。

▲計さん宅の庭にあるイジュン跡
夏は冷たくて美味しく、
内地に出てひさびさに帰ってきた人から
「ムィッナマアンニャ?(水は今もあるの?)」と聞かれるほど、
周りの人々から親しまれていた泉。
元旦にはお米をお供えして、若水を汲んだり。
冬は湯気が出るくらい温かいぬるま湯で、
旧正月の頃はツワブキを並べてアク抜き。
稲作をしていた時代は、
苗を持ってきて穂が出るまで置いていたり。
そのイジュンも残念ながら、
近くの河川工事とともに枯れてしまったそうです。
*

かつて篠川からの買い物は、
古仁屋よりも宇検村へと行くことが多かったそうです。
まず宇検村の石良に行き、それから湯湾へ。
登島さんは終戦後まもない頃、
約1時間半ほどかけて
よく石良まで歩いて行っていたとのこと。
お酒を買うのは、宇検村部連。
当時、部連は大々的に作っており、
豊年祭の時なども青年団が部連まで行って購入。
子豚は宇検村の名柄へ。
ティル(背負い籠)に生きた子豚を入れて歩いて帰り、
その子豚を一年間育て
正月前につぶして食べていました。

▲阿室釜の海岸には、塩炊き小屋が3〜4軒あった
*
また、登島さんは昭和23,24年頃、
阿室釜で作った炊きたての塩を持って、
宇検と住用を股にかけた商いをした経験も。
まずは塩を宇検村の部連へ持って行き
お茶と物々交換。
いったん阿室釜へ戻り
後日、住用村の新村を経由して、
住用の各集落を一軒一軒たずねて
そのお茶を販売して回っていました!
遠くは、住用の和瀬集落まで行商。
ダイナマイトで赤ウルメを獲っていた人の家に泊めてもらい、
ごちそうになった記憶もあるそうです。

▲登島さん
部連では塩が喜ばれ、
住用村ではお茶を作っていなかったので、
よく売れていいお金になったとか。
篠川から宇検村や住用和瀬まで
歩いての行商は、どれだけ大変なことだったでしょうか。
登島さんはこのほか、
昭和28年頃に西表島に仕事で行ったことも。
当時の記憶は鮮明で、
聞いているこちらもワクワクするようなお話ばかりでした。
*
みなさんのお話をもとに、
集落の中を見て回りました。
篠川・阿室釜は広くて見どころもいっぱいです。

▲篠川と阿室釜の境界にある石柱

▲長く続く阿室釜の「よねやま商店」
「よねやま商店」の向かい、
阿室釜の県道沿いに赤い鳥居。
少し険しい参道を登ると「厳島神社」があります。

登島さんによると、昭和9年頃、
シマの年寄りは阿室釜や神社周辺のことを
「ティランハナ・ティランサキ(神社の岬・先)」や
「ウレガミ(下神)」と呼んでいたそう。

▲厳島神社の社殿
摺勝の積さんや親などは、
海岸を埋め立ててできたムラだから
阿室釜のことを「シンムラ」と呼んでいたとのこと。

▲厳島神社社殿に祀られている3体の石像
厳島神社は、もともと摺勝近くの
ミチョーラ(道浦)の山にありました。
篠川の芝家が、先祖で琉球より来島した姫の霊を
慰めるために建てられたものが起源といわれています。

▲一番右の山が、かつて厳島神社があったミチョーラ(道浦)の山
このミチョーラの山中には、
古い墓地があり、
その中に芝家の墓群も残っています。

▲ミチョーラ(道浦)の山頂付近からは加計呂麻島も見える
芝家は琉球建国の王・舜天の流れを汲み、
正徳四(1714)年に芝 好徳が誕生。
好徳は、生涯に渡り
薩摩藩へ40万斤(240トン)の黒砂糖を献上。
木曽川工事や江戸屋敷の火災などのたびに、
薩摩藩を支え続けました。
それらの功労で、名字も芝姓を名乗ることが許され、
代々郷士格を与えられた芝家。
龍郷町の田畑家と並ぶ由緒ある名家です。
他にも好徳は、奄美で初めて毛織物を織らせ献納。
また伊須にオランダ船が漂着したことをうけ、
「島は自分たちで守るしかない」と
大銃を6年かけて鋳造。
その他、さまざまな功績が語り継がれています。

▲ミチョーラ(道浦)の山中にひっそりとある芝家の墓群
芝家は厳島神社をミチョーラ(道浦)から阿室釜に移し、
その後、阿室釜の勝家とともに改築することに。
旅の神ともいわれ、五穀豊穣や
芝家と勝家の親睦と繁栄を祈願するためのもので、
かつては一般の人の参詣は許されなかったそう。
戦時中からは一般の参詣が許され、
他の集落からも武運長久の祈願などに訪れました。
現在、厳島神社は
篠川・阿室釜の間にあり
2つの集落を見守っています。

▲厳島神社の篠川入り口近くにあった壕
*
古い時代に厳島神社があったミチョーラの山からは、
山沿いを通り
かつてアシャゲ・トネヤのあった
篠川小中学校付近へと結ぶカミミチが存在。
県が急傾斜工事をした際も、
家と山の間のカミミチは残して守られているそうです。

▲公民館兼「篠川地区振興センター」。この山沿いを通ってカミミチがある
計さんによると
最初にミャーやアシャゲ・トネヤがあったのは、
大家橋(おおやばし)の道を挟んだ
空き地となっている場所。

▲大家橋

▲一番最初にミャーやアシャゲのあった場所と言われる空き地
その後、ミャー・アシャゲ・トネヤは
現在篠川バス停のある広場へ移動。
終戦後は、アシャゲやトネヤを
校舎として使っていたこともあるそうです。

▲2番目にミャー・アシャゲ・トネヤのあった篠川バス停付近。以前は広っぱだったが河川工事のために今の地形に
現在のミャーは、土俵がある場所。
保育所もかねている公民館は、
集落が昭和36年建設・平成5年改築したもの。
十五夜豊年祭はこちらで行なわれます。
篠川にいたノロ神は昭和35年頃に亡くなり、
最後のノロ神となったそう。
その後、アシャゲ・トネヤは、昭和38年頃に消滅。

▲篠川・阿室釜は相撲も盛ん。篠川小中学校出身の川畑くんが、現在立浪部屋で「明生」として頑張っている
*
明治8年に「郷校」として設立した篠川小中学校。
瀬戸内町内でも歴史の長い学校です。

芝家の本家跡に建てられた「芝 好徳顕彰碑」

篠川沿いの「大屋通(フウヤドリ・オオヤドリ)」あたり

*
明治時代、島のリーダーたちが
尋常小学校(4年制)を卒業した子供達のためにと、
名瀬に「大島高等小学東校」
古仁屋に「大島高等小学西校」を設立。
その「大島高等小学西校」が
明治23(1890)年に、篠川に移転しました。
奄美大島に名瀬と篠川の2つしかなかったため、
試験も難しく、
向学心に燃える生徒が集まったそうです。
加計呂麻島出身で日本初のロシア文学者・昇曙夢も
この大島高等小学西校の卒業生でした。

▲篠川小中学校近くにある「篠川農学校」の碑
明治33年に大島高等小学西校が閉校し、
同地に篠川実業補修学校が開校。
そして明治36年には、篠川農学校と改称されました。
篠川農学校は、大正7年に閉校しましたが、
農業振興を目指し学んだ卒業生は、
台湾や満州でおおいに活躍したそうです。
*
ちなみに昇曙夢は、
阿室釜集落の白浜から大島高等小学西校へ通学。
作詞した「月の白浜」にも詠まれています。

▲阿室釜集落の小字「白浜」。シマグチでは「シリャハマ」。旧実久村から移住してきた人からできた集落
*
昔からタンカンが名産の篠川。
調査に訪れたこの時は最盛期で、
篠川郵便局にはひっきりなしに出荷のタンカンが持ち込まれていました。

集落のあちこちの無人販売所にタンカンが!安い

県道79号線から住用へつながる612号線(篠川下福線)へ入ると
左手にある商店「よしみ屋」。
こちらは比較的新しいお店。

篠川の小字「摺勝」は、シマグチでは「スィガチ」。
摺勝には、かつてイビグチと呼ばれる潮止めがありました。

▲摺勝橋
摺勝より西の岬「シュンマハナ」付近にあった墓地には、
サンゴ石の墓がありました。
こちらは享保二(1717)年のものと確認。

▲一番右がサンゴ石
聞き取り調査でうかがったみなさんは
90歳前後でどれも貴重なお話ばかり。
ここに書ききれないほどの、
興味深いお話がたくさんありました。
*
瀬戸内町を代表する名家・芝家が興り、
また奄美大島に2つしかなかった
高等小学校などが設置され、
多くの優れた人材を輩出。
進取の気風に富み、
向学な気質は現在も受け継がれています。

昔からさまざまな人が集い、
瀬戸内町西方の交通の要衝だからでしょうか、
オープンな雰囲気がある集落です。
登島さん、慶さん、積さん、計さん、
そして出会った篠川・阿室釜集落のみなさん
ご協力ありがとうございました。

▲県道612号篠川下福線の峠より篠川集落を望む
<参考文献>
・ 「瀬戸内町誌 歴史編」
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」
・ 「瀬戸内町の文化財を訪ねて」瀬戸内町教育委員会
・ 「瀬戸内町文化財保護審議委員会調査資料 篠川・阿室釜集落」
調査日:2014年2月13日(木)・18日(火)
奄美.asia 調査員 Y.K
聞き取り調査。
篠川(しのかわ)・阿室釜(あむろがま)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、
篠川がシニョホ、阿室釜はアムルガマ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西のエリア、
車で県道79号線を宇検方面へ約20分。
三方を山に囲まれ、
穏やかな篠川湾に面して隣接する2つの集落です。
篠川の人口は149人・83世帯、
阿室釜の人口は47人・28世帯。
(瀬戸内町町民課2014年2月末現在資料より)
▲篠川湾に面する阿室釜集落と篠川集落
薩摩藩時代に多くの黒糖を献上した
芝家の本家跡や墓群も残っています。
明治時代には
大島高等小学西校や篠川農学校など
南大島の最高学府が設置された時代が。
また戦前から林業が盛んで、
タンカンも名産です。
*
篠川と阿室釜は区長がそれぞれいらっしゃり、
豊年祭などの行事は別々で行なっていますが、
協力しあい、風習や文化は同じということで
合同でお話をうかがうことができました。
元篠川区長の計 省三(はかり・しょうぞう)さんに
とりまとめをしていただき、
3人のみなさんに集まっていただきました。
写真左より、
積 ミヨ(せき)さん、<大正15年生まれ・満88歳> 摺勝
慶 節子(けい・せつこ)さん、<大正12年生まれ・満91歳> 阿室釜
登島治雄(としま・はるお)さん、<昭和2年生まれ・満87歳> 阿室釜
計 省三さん、<昭和14年生まれ・満75歳> 篠川
みなさんにおうかがいしたのは、
・ 集落小字の方言名、山や岬、浜の名前
・ 製材所や製糖工場などの場所
・ イザリの様子、灯り
・ 年中行事や信仰、神社
・ 宇検村への行き来
など、大正末期から昭和初期にお生まれになったみなさんのお話は、
とても興味深いものばかりでした。
*
篠川は山深く、
戦前から林業が盛んな集落。
篠川橋付近の海岸沿いには
昭和35年頃まで製材所が4つ並び、
そのまま船で枕木や薪として出荷。
阿室釜の「よねやま商店」横の空き地あたりには、
一番規模の大きいK製材所がありました。
このK製材所の横には、
製材所から出るノコンカス(おがくず)を燃料にした
塩炊き小屋も。
車が通らないので、
ノコンカスを道に広げて乾燥させていたそうです。
▲K製材所跡
*
製材所のない時代には、
山から伐り出した丸太を
ハツリと呼ばれる斧・鉞(まさかり)を使って、
角材にしていました。
▲計さんのお兄さん所有のハツリの刃。カバーはシュロ
計さんのお宅のオモテ(母屋)は
すべてハツリで伐り出した木材を使用。
マンドヤマから杉を伐り出し
篠川まで木材を運搬するのに、
各家庭では牛を飼育していました。
*
計さんのお宅の庭には
「イジュン(泉)」があり、
近所の人も飲み水の汲み場として利用。
▲計さん宅の庭にあるイジュン跡
夏は冷たくて美味しく、
内地に出てひさびさに帰ってきた人から
「ムィッナマアンニャ?(水は今もあるの?)」と聞かれるほど、
周りの人々から親しまれていた泉。
元旦にはお米をお供えして、若水を汲んだり。
冬は湯気が出るくらい温かいぬるま湯で、
旧正月の頃はツワブキを並べてアク抜き。
稲作をしていた時代は、
苗を持ってきて穂が出るまで置いていたり。
そのイジュンも残念ながら、
近くの河川工事とともに枯れてしまったそうです。
*
かつて篠川からの買い物は、
古仁屋よりも宇検村へと行くことが多かったそうです。
まず宇検村の石良に行き、それから湯湾へ。
登島さんは終戦後まもない頃、
約1時間半ほどかけて
よく石良まで歩いて行っていたとのこと。
お酒を買うのは、宇検村部連。
当時、部連は大々的に作っており、
豊年祭の時なども青年団が部連まで行って購入。
子豚は宇検村の名柄へ。
ティル(背負い籠)に生きた子豚を入れて歩いて帰り、
その子豚を一年間育て
正月前につぶして食べていました。
▲阿室釜の海岸には、塩炊き小屋が3〜4軒あった
*
また、登島さんは昭和23,24年頃、
阿室釜で作った炊きたての塩を持って、
宇検と住用を股にかけた商いをした経験も。
まずは塩を宇検村の部連へ持って行き
お茶と物々交換。
いったん阿室釜へ戻り
後日、住用村の新村を経由して、
住用の各集落を一軒一軒たずねて
そのお茶を販売して回っていました!
遠くは、住用の和瀬集落まで行商。
ダイナマイトで赤ウルメを獲っていた人の家に泊めてもらい、
ごちそうになった記憶もあるそうです。
▲登島さん
部連では塩が喜ばれ、
住用村ではお茶を作っていなかったので、
よく売れていいお金になったとか。
篠川から宇検村や住用和瀬まで
歩いての行商は、どれだけ大変なことだったでしょうか。
登島さんはこのほか、
昭和28年頃に西表島に仕事で行ったことも。
当時の記憶は鮮明で、
聞いているこちらもワクワクするようなお話ばかりでした。
*
みなさんのお話をもとに、
集落の中を見て回りました。
篠川・阿室釜は広くて見どころもいっぱいです。
▲篠川と阿室釜の境界にある石柱
▲長く続く阿室釜の「よねやま商店」
「よねやま商店」の向かい、
阿室釜の県道沿いに赤い鳥居。
少し険しい参道を登ると「厳島神社」があります。
登島さんによると、昭和9年頃、
シマの年寄りは阿室釜や神社周辺のことを
「ティランハナ・ティランサキ(神社の岬・先)」や
「ウレガミ(下神)」と呼んでいたそう。
▲厳島神社の社殿
摺勝の積さんや親などは、
海岸を埋め立ててできたムラだから
阿室釜のことを「シンムラ」と呼んでいたとのこと。
▲厳島神社社殿に祀られている3体の石像
厳島神社は、もともと摺勝近くの
ミチョーラ(道浦)の山にありました。
篠川の芝家が、先祖で琉球より来島した姫の霊を
慰めるために建てられたものが起源といわれています。
▲一番右の山が、かつて厳島神社があったミチョーラ(道浦)の山
このミチョーラの山中には、
古い墓地があり、
その中に芝家の墓群も残っています。
▲ミチョーラ(道浦)の山頂付近からは加計呂麻島も見える
芝家は琉球建国の王・舜天の流れを汲み、
正徳四(1714)年に芝 好徳が誕生。
好徳は、生涯に渡り
薩摩藩へ40万斤(240トン)の黒砂糖を献上。
木曽川工事や江戸屋敷の火災などのたびに、
薩摩藩を支え続けました。
それらの功労で、名字も芝姓を名乗ることが許され、
代々郷士格を与えられた芝家。
龍郷町の田畑家と並ぶ由緒ある名家です。
他にも好徳は、奄美で初めて毛織物を織らせ献納。
また伊須にオランダ船が漂着したことをうけ、
「島は自分たちで守るしかない」と
大銃を6年かけて鋳造。
その他、さまざまな功績が語り継がれています。
▲ミチョーラ(道浦)の山中にひっそりとある芝家の墓群
芝家は厳島神社をミチョーラ(道浦)から阿室釜に移し、
その後、阿室釜の勝家とともに改築することに。
旅の神ともいわれ、五穀豊穣や
芝家と勝家の親睦と繁栄を祈願するためのもので、
かつては一般の人の参詣は許されなかったそう。
戦時中からは一般の参詣が許され、
他の集落からも武運長久の祈願などに訪れました。
現在、厳島神社は
篠川・阿室釜の間にあり
2つの集落を見守っています。
▲厳島神社の篠川入り口近くにあった壕
*
古い時代に厳島神社があったミチョーラの山からは、
山沿いを通り
かつてアシャゲ・トネヤのあった
篠川小中学校付近へと結ぶカミミチが存在。
県が急傾斜工事をした際も、
家と山の間のカミミチは残して守られているそうです。
▲公民館兼「篠川地区振興センター」。この山沿いを通ってカミミチがある
計さんによると
最初にミャーやアシャゲ・トネヤがあったのは、
大家橋(おおやばし)の道を挟んだ
空き地となっている場所。
▲大家橋
▲一番最初にミャーやアシャゲのあった場所と言われる空き地
その後、ミャー・アシャゲ・トネヤは
現在篠川バス停のある広場へ移動。
終戦後は、アシャゲやトネヤを
校舎として使っていたこともあるそうです。
▲2番目にミャー・アシャゲ・トネヤのあった篠川バス停付近。以前は広っぱだったが河川工事のために今の地形に
現在のミャーは、土俵がある場所。
保育所もかねている公民館は、
集落が昭和36年建設・平成5年改築したもの。
十五夜豊年祭はこちらで行なわれます。
篠川にいたノロ神は昭和35年頃に亡くなり、
最後のノロ神となったそう。
その後、アシャゲ・トネヤは、昭和38年頃に消滅。
▲篠川・阿室釜は相撲も盛ん。篠川小中学校出身の川畑くんが、現在立浪部屋で「明生」として頑張っている
*
明治8年に「郷校」として設立した篠川小中学校。
瀬戸内町内でも歴史の長い学校です。
芝家の本家跡に建てられた「芝 好徳顕彰碑」
篠川沿いの「大屋通(フウヤドリ・オオヤドリ)」あたり
*
明治時代、島のリーダーたちが
尋常小学校(4年制)を卒業した子供達のためにと、
名瀬に「大島高等小学東校」
古仁屋に「大島高等小学西校」を設立。
その「大島高等小学西校」が
明治23(1890)年に、篠川に移転しました。
奄美大島に名瀬と篠川の2つしかなかったため、
試験も難しく、
向学心に燃える生徒が集まったそうです。
加計呂麻島出身で日本初のロシア文学者・昇曙夢も
この大島高等小学西校の卒業生でした。
▲篠川小中学校近くにある「篠川農学校」の碑
明治33年に大島高等小学西校が閉校し、
同地に篠川実業補修学校が開校。
そして明治36年には、篠川農学校と改称されました。
篠川農学校は、大正7年に閉校しましたが、
農業振興を目指し学んだ卒業生は、
台湾や満州でおおいに活躍したそうです。
*
ちなみに昇曙夢は、
阿室釜集落の白浜から大島高等小学西校へ通学。
作詞した「月の白浜」にも詠まれています。
▲阿室釜集落の小字「白浜」。シマグチでは「シリャハマ」。旧実久村から移住してきた人からできた集落
*
昔からタンカンが名産の篠川。
調査に訪れたこの時は最盛期で、
篠川郵便局にはひっきりなしに出荷のタンカンが持ち込まれていました。
集落のあちこちの無人販売所にタンカンが!安い
県道79号線から住用へつながる612号線(篠川下福線)へ入ると
左手にある商店「よしみ屋」。
こちらは比較的新しいお店。
篠川の小字「摺勝」は、シマグチでは「スィガチ」。
摺勝には、かつてイビグチと呼ばれる潮止めがありました。
▲摺勝橋
摺勝より西の岬「シュンマハナ」付近にあった墓地には、
サンゴ石の墓がありました。
こちらは享保二(1717)年のものと確認。
▲一番右がサンゴ石
聞き取り調査でうかがったみなさんは
90歳前後でどれも貴重なお話ばかり。
ここに書ききれないほどの、
興味深いお話がたくさんありました。
*
瀬戸内町を代表する名家・芝家が興り、
また奄美大島に2つしかなかった
高等小学校などが設置され、
多くの優れた人材を輩出。
進取の気風に富み、
向学な気質は現在も受け継がれています。
昔からさまざまな人が集い、
瀬戸内町西方の交通の要衝だからでしょうか、
オープンな雰囲気がある集落です。
登島さん、慶さん、積さん、計さん、
そして出会った篠川・阿室釜集落のみなさん
ご協力ありがとうございました。

▲県道612号篠川下福線の峠より篠川集落を望む
<参考文献>
・ 「瀬戸内町誌 歴史編」
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」
・ 「瀬戸内町の文化財を訪ねて」瀬戸内町教育委員会
・ 「瀬戸内町文化財保護審議委員会調査資料 篠川・阿室釜集落」
調査日:2014年2月13日(木)・18日(火)
奄美.asia 調査員 Y.K
2014年05月10日
ウミガメの産卵がはじまりました!
春まで、各集落の昔話の聞き取り調査をメインに行ってきましたが
これからウミガメのシーズンが始まるので
今ではウミガメの調査を中心に、海の自然環境を調査しています。
4月中旬から砂浜の環境調査を行い、同時にいつウミガメの産卵が始まるか痕跡を探していましたが、
昨日、とうとう瀬戸内町で今年初めての産卵を確認しました!

今年の初産卵記録は、伊須湾内にある土泊という浜で、アオウミガメの確認となりました。
ちょっと見にくいですが、中央あたりが産卵場所です。
その後、なんと嘉徳の浜でもアカウミガメの産卵を確認できました!

ウミガメは種によって産卵する時期が多少ことなっています。
アカウミガメは5月~7月
アオウミガメ6月頃~8月ぐらいです。
しかしときおり、アオウミガメは冬に間違って産卵するなど、時期違いの産卵が見られたりします。
今回のもいつもの時期とは違いちょっとはやいですね。
まだ砂の温度が上がっていない、こんな時期に産んだアオウミガメの卵も無事に孵ってほしいですね。
最初の確認がアオウミガメでしたが、これから当分はアカウミガメの産卵が続くのでは?と思われます。
これから本格的なウミガメシーズンの始まりです!
今年もいっぱい産卵が見られるように願いながら、これから調査をしていこうと思います。
これからウミガメのシーズンが始まるので
今ではウミガメの調査を中心に、海の自然環境を調査しています。
4月中旬から砂浜の環境調査を行い、同時にいつウミガメの産卵が始まるか痕跡を探していましたが、
昨日、とうとう瀬戸内町で今年初めての産卵を確認しました!

今年の初産卵記録は、伊須湾内にある土泊という浜で、アオウミガメの確認となりました。
ちょっと見にくいですが、中央あたりが産卵場所です。
その後、なんと嘉徳の浜でもアカウミガメの産卵を確認できました!

ウミガメは種によって産卵する時期が多少ことなっています。
アカウミガメは5月~7月
アオウミガメ6月頃~8月ぐらいです。
しかしときおり、アオウミガメは冬に間違って産卵するなど、時期違いの産卵が見られたりします。
今回のもいつもの時期とは違いちょっとはやいですね。
まだ砂の温度が上がっていない、こんな時期に産んだアオウミガメの卵も無事に孵ってほしいですね。
最初の確認がアオウミガメでしたが、これから当分はアカウミガメの産卵が続くのでは?と思われます。
これから本格的なウミガメシーズンの始まりです!
今年もいっぱい産卵が見られるように願いながら、これから調査をしていこうと思います。