2014年05月28日
阿鉄シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる聞き取り調査。
阿鉄(あでつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、アディティ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
県道79号線を篠川・宇検村方面へ車で約15分。
人口は59人・31世帯
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料より)。
目の前の阿鉄湾は
入り組んだリアス式海岸で波穏やか。
台風時には格好の避難港として
多くの船舶がやってきます。

▲集落の中心に阿鉄川が流れ、川沿いに家々が奥まで並んでいる
お話をうかがったのは、
区長のご経験もある
長 則満(おさ・のりみつ)さん。
昭和5年生まれ、満84歳。
・ 小字の方言名、浜や岬、山の名前
・ 耕作地を求め移り住んだ場所
・ 漁業、待ち網漁
・ 行事、ミャーやトネヤの場所
・ 戦争時の様子
などを教えていただきました。

昔は阿鉄のことを「イキガチ」と呼んでいた時代も。
名前の由来などははっきりとしないようです。
また阿鉄集落の言葉は、
西古見集落と似ていると言われるそう。
集落間の交流があったのでしょうか?
かなり離れている集落ながら、
言葉が似ているとは不思議です。
*
かつて阿鉄は人口が多く、
集落だけでは土地が足りないために、
耕作地を求めて
さまざまな場所に移り住む時代がありました。
行き先は、油井や久根津、小名瀬集落、
マンドヤマなど。
隣の小名瀬集落の田んぼはほとんどが
阿鉄の人のもの。
長さんも小名瀬に田んぼを持ち、
牛に荷車を引かせて通っていたそうです。
また「果物のムラ」と呼ばれるほど、
パイナップル、タンカン、ポンカン、
温州みかん、パッションフルーツなど
四季折々のフルーツ栽培も盛んな集落でした。

▲手前が集落西側の岬「ナディヒジャ」。その奥に見えるのが小名瀬集落の半島で先端のほうにアティケやカツラガチがある
阿鉄から見える小名瀬集落の半島部分
「アティケ」や「カツラガチ」にも、
かつて阿鉄の人の家が
各1〜3軒(数は不明)ぐらいあったようです。
大人は畑仕事などをし、
子供を板付け舟で阿鉄まで送迎。
子供たちは、
阿鉄から峠を越えて油井まで歩いて学校に通学していました。
*
戦後、阿鉄は待網漁も盛ん。
阿鉄湾近辺でも5カ所ぐらいでやっており、
アティケやカツラガチでも行なわれていました。
待ち網は、
入り江に固定した網をまわして、
入り口だけ開けておき、
魚が入ってきたら網を閉じる漁。
ヤシ(キビナゴ)を
追いかけてくるカツオを狙います。
山の途中に見張り番たちがいて
カツオが入ってくるのを確認すると、
「イュガイッチャドォー!! ヒケー!ヒケー!」
(魚が入ったぞ、網を閉めろー!閉めろー!)と合図。
それを聞いて浜にいる人たちが
網を閉じてカツオを捕獲。

▲ナディヒジャの岬を過ぎたところから見た、水色の部分がアティケ。その左の岬を越えたとこがカツラガチ
この他に、アティケ・カツラガチの山の裏側にあたるサキノメにも
阿鉄の人の畑や
泊まるための小屋がありました。
早朝から板付け舟を漕いで、
女性一人でサキノメへ出かけていた人もいたそうです。
たくましいですね。
*
昭和5年生まれの長さん。
戦争当時のことも記憶は鮮明でした。
尋常高等小学校を卒業した4月、
阿木名集落まで山道を歩いて徴兵検査を受けに。
体が小さかったのもあり、
出征は免れました。
「 最初の空襲は、昭和19年10月10日。
朝、通学で油井の峠を越えて下りる時に、
西の方から飛行機が来て機関銃をバッーーーと撒いていった。
加計呂麻の海岸にはいっぱい船が泊まっていて、
須手にゲタバク(水上飛行機)もいた。
弟はその時、国民学校初等科の3年生(8,9歳)。
機銃掃射を見て
『にいちゃーーん、にいちゃーーん!』と怖がって叫んで。
2回目は、昭和20年3月1日。
このへんを低く飛んで、ものすごい空襲だった… 」。
*
長さんは、防空壕を掘る作業も参加。
油井岳には、敵が上陸してきた時のため、
集落民の避難場所として
防空壕を2カ所構築。
10m×10mぐらいの広さで、
高さは1m80cm〜2mぐらい。
中には丸太で柱や天井をめぐらせていました。
そこに配給のあった米などを保管。
油井岳には兵隊もいたので、
その人たちから盗まれないように
集落民で交代して
一晩泊まって見守りをしていたそうです。

▲阿鉄の海岸にあった壕。下に2本の線路のような鉄線跡が。戦跡?
またあまり知られていませんが、
阿鉄には、旧陸軍の特攻隊がいたことも。
隊長の山本陸軍大尉率いる
「海上挺進第29戦隊」、
隊員88名が約7ヵ月駐屯していました。
この特攻隊は広島県で編成され、
沖縄へ向け出発。
暴風雨のために沖縄航行が不能となり
急きょ阿鉄に基地を置くことに。
敵艦船攻撃に備えていましたが、
出撃は実現せず。
空襲で集落民が疎開して誰もいなくなった家々に、
いつの間にか特攻隊員が住んでいたそうです。
終戦から43年経った昭和63年6月、
山本隊長ら戦友会メンバー16人が
阿鉄集落にお礼をかねて訪れ、
公民館で住民との交流会が開かれました。
* *
それでは、長さんからうかがった話をもとに
集落内を見て回ります。
塩炊き小屋は海岸沿いに2軒ありました。
県道沿いの阿鉄橋の少し西側に1軒、
岬のナディヒジャ麓あたりの小字「浦」に1軒。

阿鉄川下流、西側の平地は
小字「大田袋(オオタブクロ・イフー・タブクロ)」。
その山側は、小字「脇田(ワキタ)」。
もともと阿鉄の豪農・岡家が住んでいて、
「トノチ」とも呼ばれていました。

▲「トノチ」と呼ばれていた場所
小字「城原(グスクバラ)」にある「厳島神社」。
代々岡家が祀ってきたと云われています。

社殿までの参道は
多少登りがきついのですが、
松並木や苔むす様子はとても風情がある神社。

神社祭りは旧暦9月6日。
昼に清掃、
夜は社殿で料理を楽しんだり、
演芸などをして過ごす。
7日の朝に、
神社からカミサマムチ(小さな餅)をいただく行事。
昔は、ものすごい人出で
一晩夜明かしてにぎわったそうですが、
現在は、夜11時ぐらいで終了するとのこと。

「瀬戸内町誌 民俗編」に、
夜通しで過ごす(通夜)ことを「トギ」と呼ぶと記述があったので
長さんに尋ねたところ、
「トギ」という言葉は覚えがなく、
「ティーヤ」と呼んでいるそうです。
時代が変わると、
行事の内容や呼称も変化していくもの。
他の方がどう呼んでいるかも
調査が必要ですね。
▲社殿背後にあった自然石

▲神社敷地から望む集落と阿鉄湾
神社からの帰りは、
社殿背後にある道から下ってみることに。
阿鉄小学校分校跡地や、
かつてミャーやアシャゲのある場所へと続く道でした。

▲社殿背後からの下り道も美しく保たれている
厳島神社の麓には、
「阿鉄小学校・分校」の跡地があります。
明治20(1887)年頃、阿鉄簡易小学校が開校。
昭和3(1928)年、阿鉄尋常小学校と久根津尋常小学校が統合し、
油井尋常高等学校が新設されました。
そのため阿鉄の学校は、
油井国民学校分教場や油井小学校阿鉄分校となりましたが、
昭和36年に閉校になったという歴史があります。
集落のかたがたの学校を残したかった想いは、
非常に強かったようです。

▲「阿鉄小学校分校跡地」の碑
集落の奥、阿鉄川より東側は、
家のあるあたりが小字「中惣原(ナカソツバラ)」、
山は小字「惣原(ソツバラ)」。
惣原(ソツバラ)は「カミヤマ」とも呼ばれています。

惣原(ソツバラ)には、
かつて水汲み場のソーツ(泉)がありましたが、
現在は使用されていません。
その名残でしょうか?
水路がありました。

▲ソーツ(泉)があった山・惣原(ソツバラ)
阿鉄のミャー(祭りなどを行う広場)は、
移動を経て、現在の公民館前で3カ所目。
集落で一番最初にミャーなどがあったのは、
中惣原(ナカソツバラ)の空き地だったと、
長さんは親から聞いていたそう。
ただし、長さんが物心ついた時には
何も残っていませんでした。

▲一番最初にミャーがあった中惣原の空き地
長さんが覚えており
行事にも参加していたのは、
2番目にミャーやアシャゲ、土俵などがあった場所。
現在の小学校跡地近く、
消防車庫がある広場です。
ここには公民館の役割を持つ「シュウカイジョ」もあり、
十五夜豊年祭など行事などをしていました。

▲2番目にミャーがあった場所。「フルミャー・フンミャー」とも呼ばれる。かつてアカギの木は3本あったが、現在は1本のみ
「この場所でやっていた時代の
十五夜豊年祭は盛大で、
前に流れる川の上まで舞台を張り出して作っていた」と長さん。
十五夜豊年祭の時には、
惣原(ソツバラ)の麓にある家で
力士はまわしをつけて、
そこから「ヨイヤー!、ヨイヤー!」と言いながら
このミャーの土俵まで歩いてきていたそうです。

▲惣原の麓にある力士達がまわしをつけていた家
昭和30年になって、
現在の場所にミャーや土俵、公民館が移転。
公民館は、当時不要となった
久慈小学校の教室を払い下げてもらい、
それをばらして
阿鉄で再び組み立てた建物を使用したそう。

▲三カ所目のミャー。公民館は昭和30年にここへ移動し、昭和57年に改築
ここで養蚕もしていた
牛舎の近く、阿鉄川上流の小字「神田(カミジャ)」には、
動力の製糖小屋がありました。

阿木名へ続く旧道は、
小字「阿木名道原(アクニャミッチ)」。

小字「泉(イジュミ)」の山の麓には、
防空壕の跡が。

阿鉄郵便局

公民館と郵便局の間の敷地には、
カンヒザクラと「寒緋桜の碑」。
「奄美の千本桜」と題した歌詞が刻まれていました。

耕作地を求めて
他集落にも畑などを所有するなど
阿鉄の方々は開拓精神にあふれ、働き者。
昭和30年代には阿鉄〜古仁屋を結ぶ
定期船「みくに丸」に“女船長”さんがいて、
当時有名になったこともあったそうです。

調査にうかがったのは2月下旬。
お話をうかがった長さんも、
80代半ばながら
タンカン出荷で忙しいなかで、
対応していただきました。
また「果物のムラ」として
呼ばれる日が来るといいですね。
長さん、阿鉄集落のみなさん
ご協力ありがとうございました!
*
個人的には、厳島神社の参道や境内が、
とても趣があって
散策におすすめです。

▲調査も終わり帰ろうとすると虹がくっきり!
<参考文献>
・「阿鉄集落の伝承を訪ねて」大山英信
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「瀬戸内町文化財保護審議委員会 平成9年度現地調査 旧古仁屋町阿鉄集落」
・「南海日日新聞 平成6年7月11日記『戦後50年語り継ぐあの体験』」
調査日:2014年2月20日(木)
奄美.asia 調査員 Y.K
阿鉄(あでつ)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、アディティ。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
県道79号線を篠川・宇検村方面へ車で約15分。
人口は59人・31世帯
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料より)。
目の前の阿鉄湾は
入り組んだリアス式海岸で波穏やか。
台風時には格好の避難港として
多くの船舶がやってきます。
▲集落の中心に阿鉄川が流れ、川沿いに家々が奥まで並んでいる
お話をうかがったのは、
区長のご経験もある
長 則満(おさ・のりみつ)さん。
昭和5年生まれ、満84歳。
・ 小字の方言名、浜や岬、山の名前
・ 耕作地を求め移り住んだ場所
・ 漁業、待ち網漁
・ 行事、ミャーやトネヤの場所
・ 戦争時の様子
などを教えていただきました。
昔は阿鉄のことを「イキガチ」と呼んでいた時代も。
名前の由来などははっきりとしないようです。
また阿鉄集落の言葉は、
西古見集落と似ていると言われるそう。
集落間の交流があったのでしょうか?
かなり離れている集落ながら、
言葉が似ているとは不思議です。
*
かつて阿鉄は人口が多く、
集落だけでは土地が足りないために、
耕作地を求めて
さまざまな場所に移り住む時代がありました。
行き先は、油井や久根津、小名瀬集落、
マンドヤマなど。
隣の小名瀬集落の田んぼはほとんどが
阿鉄の人のもの。
長さんも小名瀬に田んぼを持ち、
牛に荷車を引かせて通っていたそうです。
また「果物のムラ」と呼ばれるほど、
パイナップル、タンカン、ポンカン、
温州みかん、パッションフルーツなど
四季折々のフルーツ栽培も盛んな集落でした。
▲手前が集落西側の岬「ナディヒジャ」。その奥に見えるのが小名瀬集落の半島で先端のほうにアティケやカツラガチがある
阿鉄から見える小名瀬集落の半島部分
「アティケ」や「カツラガチ」にも、
かつて阿鉄の人の家が
各1〜3軒(数は不明)ぐらいあったようです。
大人は畑仕事などをし、
子供を板付け舟で阿鉄まで送迎。
子供たちは、
阿鉄から峠を越えて油井まで歩いて学校に通学していました。
*
戦後、阿鉄は待網漁も盛ん。
阿鉄湾近辺でも5カ所ぐらいでやっており、
アティケやカツラガチでも行なわれていました。
待ち網は、
入り江に固定した網をまわして、
入り口だけ開けておき、
魚が入ってきたら網を閉じる漁。
ヤシ(キビナゴ)を
追いかけてくるカツオを狙います。
山の途中に見張り番たちがいて
カツオが入ってくるのを確認すると、
「イュガイッチャドォー!! ヒケー!ヒケー!」
(魚が入ったぞ、網を閉めろー!閉めろー!)と合図。
それを聞いて浜にいる人たちが
網を閉じてカツオを捕獲。
▲ナディヒジャの岬を過ぎたところから見た、水色の部分がアティケ。その左の岬を越えたとこがカツラガチ
この他に、アティケ・カツラガチの山の裏側にあたるサキノメにも
阿鉄の人の畑や
泊まるための小屋がありました。
早朝から板付け舟を漕いで、
女性一人でサキノメへ出かけていた人もいたそうです。
たくましいですね。
*
昭和5年生まれの長さん。
戦争当時のことも記憶は鮮明でした。
尋常高等小学校を卒業した4月、
阿木名集落まで山道を歩いて徴兵検査を受けに。
体が小さかったのもあり、
出征は免れました。
「 最初の空襲は、昭和19年10月10日。
朝、通学で油井の峠を越えて下りる時に、
西の方から飛行機が来て機関銃をバッーーーと撒いていった。
加計呂麻の海岸にはいっぱい船が泊まっていて、
須手にゲタバク(水上飛行機)もいた。
弟はその時、国民学校初等科の3年生(8,9歳)。
機銃掃射を見て
『にいちゃーーん、にいちゃーーん!』と怖がって叫んで。
2回目は、昭和20年3月1日。
このへんを低く飛んで、ものすごい空襲だった… 」。
*
長さんは、防空壕を掘る作業も参加。
油井岳には、敵が上陸してきた時のため、
集落民の避難場所として
防空壕を2カ所構築。
10m×10mぐらいの広さで、
高さは1m80cm〜2mぐらい。
中には丸太で柱や天井をめぐらせていました。
そこに配給のあった米などを保管。
油井岳には兵隊もいたので、
その人たちから盗まれないように
集落民で交代して
一晩泊まって見守りをしていたそうです。
▲阿鉄の海岸にあった壕。下に2本の線路のような鉄線跡が。戦跡?
またあまり知られていませんが、
阿鉄には、旧陸軍の特攻隊がいたことも。
隊長の山本陸軍大尉率いる
「海上挺進第29戦隊」、
隊員88名が約7ヵ月駐屯していました。
この特攻隊は広島県で編成され、
沖縄へ向け出発。
暴風雨のために沖縄航行が不能となり
急きょ阿鉄に基地を置くことに。
敵艦船攻撃に備えていましたが、
出撃は実現せず。
空襲で集落民が疎開して誰もいなくなった家々に、
いつの間にか特攻隊員が住んでいたそうです。
終戦から43年経った昭和63年6月、
山本隊長ら戦友会メンバー16人が
阿鉄集落にお礼をかねて訪れ、
公民館で住民との交流会が開かれました。
* *
それでは、長さんからうかがった話をもとに
集落内を見て回ります。
塩炊き小屋は海岸沿いに2軒ありました。
県道沿いの阿鉄橋の少し西側に1軒、
岬のナディヒジャ麓あたりの小字「浦」に1軒。
阿鉄川下流、西側の平地は
小字「大田袋(オオタブクロ・イフー・タブクロ)」。
その山側は、小字「脇田(ワキタ)」。
もともと阿鉄の豪農・岡家が住んでいて、
「トノチ」とも呼ばれていました。
▲「トノチ」と呼ばれていた場所
小字「城原(グスクバラ)」にある「厳島神社」。
代々岡家が祀ってきたと云われています。
社殿までの参道は
多少登りがきついのですが、
松並木や苔むす様子はとても風情がある神社。
神社祭りは旧暦9月6日。
昼に清掃、
夜は社殿で料理を楽しんだり、
演芸などをして過ごす。
7日の朝に、
神社からカミサマムチ(小さな餅)をいただく行事。
昔は、ものすごい人出で
一晩夜明かしてにぎわったそうですが、
現在は、夜11時ぐらいで終了するとのこと。
「瀬戸内町誌 民俗編」に、
夜通しで過ごす(通夜)ことを「トギ」と呼ぶと記述があったので
長さんに尋ねたところ、
「トギ」という言葉は覚えがなく、
「ティーヤ」と呼んでいるそうです。
時代が変わると、
行事の内容や呼称も変化していくもの。
他の方がどう呼んでいるかも
調査が必要ですね。
▲社殿背後にあった自然石
▲神社敷地から望む集落と阿鉄湾
神社からの帰りは、
社殿背後にある道から下ってみることに。
阿鉄小学校分校跡地や、
かつてミャーやアシャゲのある場所へと続く道でした。
▲社殿背後からの下り道も美しく保たれている
厳島神社の麓には、
「阿鉄小学校・分校」の跡地があります。
明治20(1887)年頃、阿鉄簡易小学校が開校。
昭和3(1928)年、阿鉄尋常小学校と久根津尋常小学校が統合し、
油井尋常高等学校が新設されました。
そのため阿鉄の学校は、
油井国民学校分教場や油井小学校阿鉄分校となりましたが、
昭和36年に閉校になったという歴史があります。
集落のかたがたの学校を残したかった想いは、
非常に強かったようです。
▲「阿鉄小学校分校跡地」の碑
集落の奥、阿鉄川より東側は、
家のあるあたりが小字「中惣原(ナカソツバラ)」、
山は小字「惣原(ソツバラ)」。
惣原(ソツバラ)は「カミヤマ」とも呼ばれています。
惣原(ソツバラ)には、
かつて水汲み場のソーツ(泉)がありましたが、
現在は使用されていません。
その名残でしょうか?
水路がありました。
▲ソーツ(泉)があった山・惣原(ソツバラ)
阿鉄のミャー(祭りなどを行う広場)は、
移動を経て、現在の公民館前で3カ所目。
集落で一番最初にミャーなどがあったのは、
中惣原(ナカソツバラ)の空き地だったと、
長さんは親から聞いていたそう。
ただし、長さんが物心ついた時には
何も残っていませんでした。
▲一番最初にミャーがあった中惣原の空き地
長さんが覚えており
行事にも参加していたのは、
2番目にミャーやアシャゲ、土俵などがあった場所。
現在の小学校跡地近く、
消防車庫がある広場です。
ここには公民館の役割を持つ「シュウカイジョ」もあり、
十五夜豊年祭など行事などをしていました。
▲2番目にミャーがあった場所。「フルミャー・フンミャー」とも呼ばれる。かつてアカギの木は3本あったが、現在は1本のみ
「この場所でやっていた時代の
十五夜豊年祭は盛大で、
前に流れる川の上まで舞台を張り出して作っていた」と長さん。
十五夜豊年祭の時には、
惣原(ソツバラ)の麓にある家で
力士はまわしをつけて、
そこから「ヨイヤー!、ヨイヤー!」と言いながら
このミャーの土俵まで歩いてきていたそうです。
▲惣原の麓にある力士達がまわしをつけていた家
昭和30年になって、
現在の場所にミャーや土俵、公民館が移転。
公民館は、当時不要となった
久慈小学校の教室を払い下げてもらい、
それをばらして
阿鉄で再び組み立てた建物を使用したそう。
▲三カ所目のミャー。公民館は昭和30年にここへ移動し、昭和57年に改築
ここで養蚕もしていた
牛舎の近く、阿鉄川上流の小字「神田(カミジャ)」には、
動力の製糖小屋がありました。
阿木名へ続く旧道は、
小字「阿木名道原(アクニャミッチ)」。
小字「泉(イジュミ)」の山の麓には、
防空壕の跡が。
阿鉄郵便局
公民館と郵便局の間の敷地には、
カンヒザクラと「寒緋桜の碑」。
「奄美の千本桜」と題した歌詞が刻まれていました。
耕作地を求めて
他集落にも畑などを所有するなど
阿鉄の方々は開拓精神にあふれ、働き者。
昭和30年代には阿鉄〜古仁屋を結ぶ
定期船「みくに丸」に“女船長”さんがいて、
当時有名になったこともあったそうです。
調査にうかがったのは2月下旬。
お話をうかがった長さんも、
80代半ばながら
タンカン出荷で忙しいなかで、
対応していただきました。
また「果物のムラ」として
呼ばれる日が来るといいですね。
長さん、阿鉄集落のみなさん
ご協力ありがとうございました!
*
個人的には、厳島神社の参道や境内が、
とても趣があって
散策におすすめです。
▲調査も終わり帰ろうとすると虹がくっきり!
<参考文献>
・「阿鉄集落の伝承を訪ねて」大山英信
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「瀬戸内町文化財保護審議委員会 平成9年度現地調査 旧古仁屋町阿鉄集落」
・「南海日日新聞 平成6年7月11日記『戦後50年語り継ぐあの体験』」
調査日:2014年2月20日(木)
奄美.asia 調査員 Y.K