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2014年04月28日

古志 シマ(集落)めぐり

瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる
聞き取り調査。

古志(こし)集落の報告です。

シマグチでの呼び方は、クゥシ

瀬戸内町の中心部・古仁屋から西古見方面へ。
県道79号線を車で約30分ほど。


古志集落は、人口58人、35世帯。
(瀬戸内町役場町民課2014年2月末資料)。

海岸や県道から少し離れて家々がある古志。

▲左手あたりがシオイリ

これはかつて海岸線が今よりも奥にあり、
潮が上がってきていたため。
県道沿いあたりは「シオイリ」と呼ばれていました。

そのため、県道沿いには
あまり家が立ってないそうです。



昔から農業が盛んな土地で、
在来種の「古志大根」は、
戦前、人気の野菜として取引されていました。

サトウキビ栽培も行なわれ、
現在も製糖工場が1つ稼働しています。

また古志には唄者が多く、
唄あしび(遊び)の輪が二重にも三重にもなっていた時代がある
シマ唄の盛んな集落。

古志にまつわる
シマ唄「いそ加那節」や「俊良主節」もあります。


*

まずわれわれが向かったのは
山畑満男さん(大正15年生まれ)のところ。

区長の佳 和也さん(昭和22年生まれ)、
山畑さんの娘さんにも同席していただきました。

うかがったのは、
・ 集落内の地名、山・川・岬などの名前
・ 農業、古志大根など
・ 製糖や紬工場
・ 戦争体験
などについてです。



▲山畑満男さん。満88歳でだいぶ耳は遠くなっていらっしゃいますが、昔のことを話出すとさまざまなことを教えてくださいました。定期船「日吉丸」に若い頃は勤務。好物はお芋の天ぷら


山畑さんも唄者として活躍。
八月踊りでは先頭になり、
結婚式やお祝いなどでも方々から声がかかり
唄いに出かけていました。

「唄は、山畑さんがいなければ始まらない」と言われるほど、
古志のシマ唄で欠かせない存在です。

一方、娘さんは、
「うちのかあちゃん(山畑さんの奥さん)のほうが、
シマ唄はとっても上手だったのよ〜(笑)」
とおっしゃる微笑ましい親子の会話もありました。

 *

山畑満男さんの奥さんは、
唄者の勝島徳郎さん(古志出身)とイトコ。

勝島徳郎さんは、
「百年に一人」の伝説の唄者といわれる
加計呂麻島出身の武下和平さんと並び評される方です。

また、勝島徳郎さんの娘である
勝島伊都子さんも古志出身で唄者として活躍。
現在は、兵庫県尼崎で
シマ唄を聴けるお店「来るだんど」を経営なさっています。

前瀬戸内町長の義永秀親さんも古志出身で、
シマ唄や奄美の文化や
伝統芸能の継承に力を注がれているかた。

古志は、“唄のシマ”なんですね。

唄が盛んで、ユエ(お祝い)も多かったようで、
かつては

「古志は、瀬戸内で一番酒飲みが多い」
「焼酎が一番売れるところ」


と言われていたなんていう
面白いエピソードもうかがえました。



手先が器用な山畑さんは、
さまざまな道具と手作りしています。

▲背負い籠の「ティル」


他にもちょっと深さのあるザル「ソーケ」は、
お米洗いや芋洗いなど用途に合わせて何種類も作っていたり。


魚のエサ入れなども。



七夕で飾った竹竿を切って、
お盆の時にはお墓の線香立てとして利用していた竹筒。



 *

お話をもとに、
集落内を見て回ります。

古志は、商店や簡易郵便局などがある「里(サト)」と、
篠川集落寄りの「越地(こえぢ)」に主に人が住んでいます。


そのなかでも里は、
新里(シンサト)・中里(ナカサト)・上里(ウエサト)の3つに分かれています。


新里と中里の境界の道幅は現在この広さ。
昔はこの半分ぐらいに川が通ってて、半分が土の道。
川の呼び名は「シンサトのコー(川)」。




古志簡易郵便局。かわいらしい丸形ポストは現役です。




集落内に2カ所で「海軍用地」と書かれた石柱を発見。








古志には、
かつて大島紬の機織り工場が全部で4カ所ありました。
里に3つ、越地に1つ。

そのうちの1つの建物が
ぼろぼろになりながらも残っています。

集落の中ほどにあるので
「ナカコウジョウ・ナハコウジョウ」と呼ばれていました。
ひろびろとした敷地内には家もあったそう。



まだ機が数台残っています。
ここには20人ほど織工さんが働いていました。



治山商店のそばにも、かつて小さい機織り工場があり、
こちらにも4〜5人の織工さんが。

▲工場はもうなくなっている


また、古志簡易郵便局の裏にも
かつて小さな機織り工場があり
木造の建物は現存。
所有者が倉庫として使用しています。


4カ所工場があっても人が入りきれずに、
家で織っていた人も多くいたほどだとか。

工場が最期はいつ頃まで稼働していたか、
みなさんはっきりと覚えていませんでした。

最盛期には、
本当に集落のあちこちで
機織りの音が聞こえていたのでしょうね。


 *

「厳島神社」の鳥居。


神社のある山は「ウンジャク」と呼ばれています。

昔、食用や販売用として
この山にシイの実を拾いにきたところ、
無縁仏の墓を見つけた人がいました。
そのためここに落人がいたのではないかとも云われもあるそう。


少し高台にある神社。
社殿の反対側には自然石が祀られています。
昔、小学校はこのあたりにありました。



社殿の中に吊り下げられていた鰐口(わにぐち)。
安永七(1778)年九月製作。




神社の下にある井戸。
この付近について「ティランシャ」との呼称があるそうですが、
それが地名か、井戸自体か、墓のどれを指しているのかは不明との話。



古志は「ティッティゴ・ティットゴ(井戸)」が多いところ。
「よそが水が切れても、古志は水が豊富」とか。
井戸の跡があちこちにありました。



T字路に魔除けのイシガントウと思われる石が。
他数カ所に石を置いてありました。
何人かの方に呼び方を聞いてみましたが不明でした。




一番高い山が「ナンゴウ」と呼ばれる南郷山。
鉛がとれたと伝わっていたり、山へ続く軍道があった話も。
山の向こうは宇検村部連集落。
昔は、部連まで日常的に闇酒を買いに行ってました。




このあたりには製糖小屋がありました。
水車で動力を得ていた時代には、山の上に水を溜める基地「タミチ」を作り、
溜まったら一気に水を流し製糖。




古志には現在も、製糖所「古志てぃだ村」があります。
昔ながらのタイケイ種を使用した純黒糖が人気。




集落に小さな商店が1つありますが、
生鮮食品を運んだ移動販売車も2日に一度やってくるので便利。
「タンカンの苗」など何でもリクエストに応えてくれるそう。
他にも古仁屋と名瀬から2業者の精肉店が移動販売に来ています。




平成19年に閉校した古志小学校。
「多い時で100人ぐらいいたのでは?」と山畑さんの娘さん。




旧古志小学校と越地の間にある岬は「クイジバナ」。




岬「クイジバナ」と、旧古志小学校の間にある浜は「ワキジャ」。





古志の里地区から少し離れた
越地(こえぢ)も見て回りました。

越地は、シマでの呼び方はクイチ・クィッ

越地の案内をしてくださったのは、
「ダーミー福山」さんこと、
福山忠文さん(昭和26年生まれ)。
シマの歴史やシマ唄にお詳しいかた。



越地のバス停にあるガジュマルは、
福山さんのお父さんが小さい鉢から移して植えたもので、
もう50年以上になるとのこと。



マチガンサマ(神様)に見てもらったところ、
「この木にはケンムンがいる」と言われたので、
感謝の気持ちを込めて、正月や盆には塩祓いしています。



福山さんが育てている「クシデクネ(古志大根)」。
この色が特徴です。



戦前、古志大根は大人気。
定期船で古仁屋に売りにいくと、
荷を降ろす間もなく
仲買商人が船に乗り込んできて
その場でセリが始まってしまうほどだったとか。

現在、古志大根は市場に出回ってませんが、
シマでは自家用として作っているかたがいます。

昔と比べて赤紫色が薄くなっているようです。

この古志大根いただきましたが、
食感は柔らかく、味が詰っていて美味しかった!



シマ唄「いそ加那節」に登場する
梅仁志主の屋敷があった場所。



梅仁志主は実在の人物で、
明治時代には砂糖の検査員を務めていました。

愛するいそ加那が舟の事故で亡くなった後は、
墓参りし、花を活ける日々。

その痛ましくも美しい様子を見た
周りの人々が唄にしたと言われています。

梅仁志主の屋敷は大変立派で、
コージャウマと呼ばれる高貴な人が乗る
白い馬を飼っていたそうです。

 *

越地と深浦の間にある岬「マガリックワ」。



深浦、通称「ヒジャ」。かつては人が住んでいた浜。



 *

今回、その他うかがった古志のコネタは、

・旧暦3月3日に海に行かないと
 瀬戸内町の多くの集落では「カラスになる」と言われますが、
 古志では「ティコホ(ふくろう)」になると言われている。

・また、笠利町にある奄美パーク「奄美の郷・遊びの庭」に展示されている
 立派な家は、この古志集落から移築されたもの。
 本物ソックリのあまじいが縁側に座っているお宅です。





▲かつて古志・久慈〜古仁屋を結んでいた定期船「日吉丸」。
残念ながら現在は運航していない



古志では、歩きながら出会ったみなさんが
丁寧にさまざまなお話を教えてくださったり、
直接案内してくださり、
本当に助かりました。

小学校が閉校して数年が経ち、
少しさびしくなっていますが、
個性と歴史のある集落。

古志大根が復活したり、
シマ唄をきっかけに
再びにぎやかになることを願います。

山畑さんをはじめ、
調査にご協力いただいた古志集落のみなさん
ありがとうございました!



<参考文献>
・ 「古志部落誌 古さとを語る」 瀬戸内町教育委員会
・ 「瀬戸内町文化材保護審議会資料 古志・越地集落」
・ 「瀬戸内町誌 歴史編」
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」



調査日 2014年2月7日(金)・17日(月)
奄美.asia 調査員Y.K
  


Posted by 水野康次郎 at 15:40Comments(0)瀬戸内町の集落

2014年04月09日

清水 シマ(集落)めぐり

瀬戸内町の
シマ(集落)をめぐる聞き取り調査。

清水(せいすい)集落の報告です。

シマグチでの呼び方は、スィスィ

瀬戸内町の中心部・古仁屋から、
東へ一つ目の集落。

県道79号線をホノホシ海岸・ヤドリ浜方面へ、
古仁屋から車で約5分ほどです。


▲集落東側から清水を望む


現在、清水集落の人口は225人、126世帯。
(瀬戸内町役場町民課資料 2014年2月末現在資料)。


古仁屋に政治経済の中心が移行するまで、
いわゆる「東方時代」には「方役所」が清水にあり、
東方の政治経済の中心だったと言われています。


清水運動公園や体育館があり、
町外の方には、
スポーツ会場の場所としてご存知かもしれませんね。

▲清水体育館と運動公園





今回、お話を伺ったのは、
里 力(さと・いさお)さん(大正11年生まれ・満92歳)、
招(まねき)ヤスエさん、(昭和3年生まれ・満86歳)
鎌田(かまだ)ミサさん、(昭和5年生まれ・満84歳)のお三方。



▲お話をうかがった、いさおじこと、里 力(さと・いさお)さん。清水の生き字引。
シマにずっと住んで農業を営んでいる


みなさんにおうかがいしたのは、
・集落内の地名、山や川、浜や岬の名前
・草花や自然のものの利用法
・神社や八幡さまなど信仰
・年中行事、風習
・戦争の時の集落の様子や仕事

生まれも育ちも清水のみなさんは、
さまざまなことをご存知。



▲いさおじが見せてくださった地名のメモ


清水に残る地名として興味深いのが、
「七殿地」(ななとのち)。

他の集落でも、殿地と呼ばれる地名はありますが、
清水のように7つあるのは珍しいとのこと。

◎清水の七殿地とは、
・白馬(シリュマ)殿地
・上間(アガンマ)殿地
・東(ヒギャ)殿地
・下間(シモマ)殿地
・麻起把(マクワ)殿地
・脇田(ワキジャ)殿地
・金久(カネク)殿地


七殿地の由来は
次のように伝えられています。

鎮西八郎為朝の子孫で、
琉球の舜天王の流れを組む子孫が
奄美大島を治めるために来島し、清水へ。

さらにその子孫にあたる朝宗(喜真)が
7人の子供に与えた屋敷が
七殿地と呼ばれる所。


▲朝宗(喜真)の墓


特にY氏の家は、
その昔、裏手で白い馬が飼われ、
役人が職務に使用していたことから、
「白馬殿地」とその地名が付いています。


海岸通り沿いの空き地は「下間殿地」。



この「七殿地」の地名、
お話をうかがった3人は現在も使っているとのことでした。





植物の利用では面白かったのが、
山でとってくるビジンカズラ(和名サネカズラ・ビナンカズラ)での洗髪。
ウシノフグリとも言ってました。

島では、よくハイビスカスを
シャンプー代わりに使っていたと聞きますが、
それ以前に使っていたのがビジンカズラ。

ビジンカズラの実は叩くと
ネチャネチャしたものが出てくるので、
それと桑の葉をタオルに包んで
突いてから絞った液で髪を洗っていたそう。

ミサさんは、
近くのフウコー(清水川)で、
ビジンカズラを使って洗髪していたと言います。


▲左から、招(まねき)ヤスエさん、鎌田ミサさん。




また雨の日には、ウムノバシャ(クワズイモの葉)をかぶって、
学校に行ったりもしたそう。
「となりのトトロ」の世界ですね。

夏の暑い時には、ソテツのナリ(実)にかぶっている
白い綿のような皮(大胞子葉・心皮)を取って、
靴みたいに履いて(?)学校に行っていたとか。
ちょっとトゲがあるけど、冷やっとして気持ちよかったみたいですよ。

 *

また清水には、町内の他の集落では見られない
独特の行事があります。

それが、旧暦8月16日の行事。

集落の守り神であるグンギンで行なわれます。

清水のグンギンは、
古仁屋からトンキャンを越えて清水に行く途中の山にあります。
(徳洲会病院の裏にあたり)

▲清水側から見た山。崩れている所の左、松の木が枯れているあたりにグンギンが


ここへ
旧暦8月15日・十五夜豊年祭の次の日、
旧暦8月16日に青年団が必ずグンギンに登っていきます。

まず青壮年団はグンギンの周囲を清掃。
毎年一升瓶をそこに埋めておくので、
そのお酒でまずは身をお清め。

その後、その年に集落に新しく来た人が、
なんと松の木を抱えて
「キーヤ、キーヤ」と「セミ」の鳴き声の真似をするそうです!

そうミーン、ミーンと鳴くセミです。

清水では、セミのことを「キーヤ」と呼びます。

よそから清水に来た人を歓迎するためにやるので、
新人を連れて行き、
新人だけがセミの鳴き声を真似します。

なんともユニークな行事ですね。

昔は、男女ともにグンギンに登っていましたが、
現在は、女性は昼食などの準備で公民館で作業し、
男性だけがグンギンへ行ってこの行事をします。

 *

また、旧暦9月6日の夜から
7日の早朝にかけて行なわれるのが厳島神社祭「ティーヤ」。

こちらは、
無病息災と五穀豊穣を祈る行事。

6日は、集落の人々で社殿で歌ったり、ごちそうを食べたり。
以前は、夜通しで朝まで宴が続いたので
「ティーヤ=徹夜・通夜」の名称があると言われています。





明けて7日の早朝には、
集落の人々が社殿の周りを「ヒヨヒヨ」と唱えながら、
ソテツの葉を1000本になるまで投げ込みます。

▲ソテツは、1年間供えられている


その後、集落の人々に、
神前に供えたミキや団子、塩などが配られます。

いただいた塩は、お清めや魔除けとして、
内地に住む子供さんたちに送ったりするほど大切するもの。



▲社殿の背後にある自然石


ちなみに厳島神社は、県道沿いで海のすぐそば。

この海岸べりには、海からとってきたサンゴを焼いて、
石灰をつくる釜がありました。

その石灰は、製糖する際にサトウキビの汁を炊くときに使われていたもの。
里さんは、その石灰を買って
黒糖を作っていたいたそうです。


▲厳島神社は、集落の嘉鉄側。かつては海側に鳥居があった


他にトンキャンの岬あたりにも
古仁屋の人が寝泊りしてサンゴを焼く小屋がありました。





海岸沿いのこの建物の前あたりには、
かつてマシュガマ(塩炊き小屋)も。




集落のアガレ(東)と、イリ(西)は、
公民館とアパートの間の道が境界。




清水公民館。広場はミャー。

以前の公民館は、川と平行に建っていました。

その地下には水槽があり、
婦人会がそこで桑の葉を保管し
上の部屋で養蚕をしていたため、
「シイクジョ」と呼ばれていたそう。

繭は農協に出荷。
シイクジョには舞台があり、
家庭訪問の時にはそこで演芸をして先生と交流していました。




公民館前のミャーの隅、
水路にかかる橋の近くにアシャゲがありました。
昭和20年頃まであったのでは?と鎌田さん。





公民館の電柱そばにあるチカライシ。




字「脇田」にある飲み水汲み場「ワキジャゴ」。
水をすくうと、セェ(小エビ)がいました!
昔は、このセェをうどんのダシに使ったそう。



集落の西側の岬は、「ハアサキ(赤崎)」。



集落の東側の岬は、「クルサキ(黒崎)」。



清水川は、「フウコ(大川)」。



ゲートボール場近く、
集落で一番古い墓地がある山は「カミヤマ」。



清水は、「奄美の英傑」と呼ばれる
清 當済(きよし・とうすみ)を生んだ地。

當済は、鹿児島に学び、
焼内間切の横目や笠利間切の定与人に。
笠利で農民が飢饉になった際は、
藩の蔵米を破り取り出して窮民を救います。
また、60歳になってから無人島探検に挑んだりもしました。

その當済の墓が、カミヤマの麓の墓地にあります。





県道から清水運動公園に上がる道の途中には、
戦争中、軍馬が何百頭もつながれていました。



清水運動公園は、遊具やアスレチックもあり。




清水運動公園から山を見ると、一番高いのが「キャンマヤマ」。
その右手が滝のある「タキヤマ」。
左は八幡神社のある「ナガヤマ」。

清水の八幡神社は、
戦時中に出征兵士の武運長久を祈願するところとして、
各地から人が詣でたそうです。




 *

集落内を歩いている途中に
お話をうかがった方からは、
他にも、こんな話をうかがいました。

清水ではお墓に供えるものとして
・旧暦1月15日 菜の花
・旧暦3月3日 百合
・旧暦7月7日 ブフォ(茅)
があったり。

また
・旧正月初巳の日、清水の女性は浜でバケツに白い砂を入れて、
 3回厳島神社に運んで撒く。4回目は自分の家の四隅に撒く、

という行事もあるそうです。



▲海岸沿いにある食堂。関西風ダシのうどんが人気


清水集落は、
古仁屋の一つ隣でありながら、
このシマならではの独特の伝統行事や風習が
多く残っているところが非常に興味深い土地。

昨年の十五夜豊年祭では、
長年披露されていなかった伝統芸能「模擬闘牛」も復活。

八月踊り保存会の活動も盛ん。
夏が近づくと練習が始まり、
夕方、公民館からチヂンと八月唄が集落に響く様子は、
とても風情があります。

これもシマの心を伝えてきた先輩方のおかげ。


▲海岸沿いにある週末オープンのカフェ



海岸沿いにはサンゴの石垣があり、
昔ながらのシマのたたずまいを残しながらも、
喫茶店やカフェ、食堂、民宿、
シーカヤック・ダイビングガイドもあります。

海から山へと、
ぐるっと集落を散策して見ると、
いろいろな楽しみを発見できる集落です。

里さん、鎌田さん、招さん、
そして調査途中の道ばたでお話をしてくださった清水集落のみなさん、
ご協力ありがとうございました!






<参考文献>
・「清水部落の由来」 瀬戸内町教育委員会
・「瀬戸内町文化財保護審議委員会 平成9年度現地調査 旧古仁屋町・清水」
・「瀬戸内町誌 民俗編」


調査日 : 2014年1月28日(火)・29日(水)

奄美.asia 調査員 Y.K



  

Posted by 水野康次郎 at 10:33Comments(0)瀬戸内町の集落