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2014年05月16日

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり

瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる
聞き取り調査。

篠川(しのかわ)・阿室釜(あむろがま)集落の報告です。

シマグチでの呼び方は、
篠川がシニョホ、阿室釜はアムルガマ

瀬戸内町の中心部・古仁屋から西のエリア、
車で県道79号線を宇検方面へ約20分。

三方を山に囲まれ、
穏やかな篠川湾に面して隣接する2つの集落です。

篠川の人口は149人・83世帯、
阿室釜の人口は47人・28世帯。
(瀬戸内町町民課2014年2月末現在資料より)

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲篠川湾に面する阿室釜集落と篠川集落

薩摩藩時代に多くの黒糖を献上した
芝家の本家跡や墓群も残っています。

明治時代には
大島高等小学西校や篠川農学校など
南大島の最高学府が設置された時代が。

また戦前から林業が盛んで、
タンカンも名産です。



篠川と阿室釜は区長がそれぞれいらっしゃり、
豊年祭などの行事は別々で行なっていますが、
協力しあい、風習や文化は同じということで
合同でお話をうかがうことができました。

元篠川区長の計 省三(はかり・しょうぞう)さんに
とりまとめをしていただき、
3人のみなさんに集まっていただきました。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


写真左より、
積 ミヨ(せき)さん、<大正15年生まれ・満88歳> 摺勝
慶 節子(けい・せつこ)さん、<大正12年生まれ・満91歳> 阿室釜
登島治雄(としま・はるお)さん、<昭和2年生まれ・満87歳> 阿室釜
計 省三さん、<昭和14年生まれ・満75歳> 篠川


みなさんにおうかがいしたのは、
・ 集落小字の方言名、山や岬、浜の名前
・ 製材所や製糖工場などの場所
・ イザリの様子、灯り
・ 年中行事や信仰、神社
・ 宇検村への行き来

など、大正末期から昭和初期にお生まれになったみなさんのお話は、
とても興味深いものばかりでした。



篠川は山深く、
戦前から林業が盛んな集落。

篠川橋付近の海岸沿いには
昭和35年頃まで製材所が4つ並び、
そのまま船で枕木や薪として出荷。

阿室釜の「よねやま商店」横の空き地あたりには、
一番規模の大きいK製材所がありました。

このK製材所の横には、
製材所から出るノコンカス(おがくず)を燃料にした
塩炊き小屋も。

車が通らないので、
ノコンカスを道に広げて乾燥させていたそうです。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲K製材所跡



製材所のない時代には、
山から伐り出した丸太を
ハツリと呼ばれる斧・鉞(まさかり)を使って、
角材にしていました。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲計さんのお兄さん所有のハツリの刃。カバーはシュロ

計さんのお宅のオモテ(母屋)は
すべてハツリで伐り出した木材を使用。

マンドヤマから杉を伐り出し
篠川まで木材を運搬するのに、
各家庭では牛を飼育していました。



計さんのお宅の庭には
「イジュン(泉)」があり、
近所の人も飲み水の汲み場として利用。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲計さん宅の庭にあるイジュン跡

夏は冷たくて美味しく、
内地に出てひさびさに帰ってきた人から
「ムィッナマアンニャ?(水は今もあるの?)」と聞かれるほど、
周りの人々から親しまれていた泉。

元旦にはお米をお供えして、若水を汲んだり。
冬は湯気が出るくらい温かいぬるま湯で、
旧正月の頃はツワブキを並べてアク抜き。

稲作をしていた時代は、
苗を持ってきて穂が出るまで置いていたり。

そのイジュンも残念ながら、
近くの河川工事とともに枯れてしまったそうです。



篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり

かつて篠川からの買い物は、
古仁屋よりも宇検村へと行くことが多かったそうです。

まず宇検村の石良に行き、それから湯湾へ。
登島さんは終戦後まもない頃、
約1時間半ほどかけて
よく石良まで歩いて行っていたとのこと。

お酒を買うのは、宇検村部連。
当時、部連は大々的に作っており、
豊年祭の時なども青年団が部連まで行って購入。

子豚は宇検村の名柄へ。
ティル(背負い籠)に生きた子豚を入れて歩いて帰り、
その子豚を一年間育て
正月前につぶして食べていました。


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲阿室釜の海岸には、塩炊き小屋が3〜4軒あった



また、登島さんは昭和23,24年頃、
阿室釜で作った炊きたての塩を持って、
宇検と住用を股にかけた商いをした経験も。

まずは塩を宇検村の部連へ持って行き
お茶と物々交換。

いったん阿室釜へ戻り
後日、住用村の新村を経由して、
住用の各集落を一軒一軒たずねて
そのお茶を販売して回っていました!

遠くは、住用の和瀬集落まで行商。
ダイナマイトで赤ウルメを獲っていた人の家に泊めてもらい、
ごちそうになった記憶もあるそうです。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲登島さん

部連では塩が喜ばれ、
住用村ではお茶を作っていなかったので、
よく売れていいお金になったとか。

篠川から宇検村や住用和瀬まで
歩いての行商は、どれだけ大変なことだったでしょうか。

登島さんはこのほか、
昭和28年頃に西表島に仕事で行ったことも。
当時の記憶は鮮明で、
聞いているこちらもワクワクするようなお話ばかりでした。




みなさんのお話をもとに、
集落の中を見て回りました。
篠川・阿室釜は広くて見どころもいっぱいです。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲篠川と阿室釜の境界にある石柱



篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲長く続く阿室釜の「よねやま商店」

「よねやま商店」の向かい、
阿室釜の県道沿いに赤い鳥居。

少し険しい参道を登ると「厳島神社」があります。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり

登島さんによると、昭和9年頃、
シマの年寄りは阿室釜や神社周辺のことを
「ティランハナ・ティランサキ(神社の岬・先)」や
「ウレガミ(下神)」と呼んでいたそう。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲厳島神社の社殿

摺勝の積さんや親などは、
海岸を埋め立ててできたムラだから
阿室釜のことを「シンムラ」と呼んでいたとのこと。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲厳島神社社殿に祀られている3体の石像

厳島神社は、もともと摺勝近くの
ミチョーラ(道浦)の山にありました。

篠川の芝家が、先祖で琉球より来島した姫の霊を
慰めるために建てられたものが起源といわれています。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲一番右の山が、かつて厳島神社があったミチョーラ(道浦)の山

このミチョーラの山中には、
古い墓地があり、
その中に芝家の墓群も残っています。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲ミチョーラ(道浦)の山頂付近からは加計呂麻島も見える


芝家は琉球建国の王・舜天の流れを汲み、
正徳四(1714)年に芝 好徳が誕生。

好徳は、生涯に渡り
薩摩藩へ40万斤(240トン)の黒砂糖を献上。

木曽川工事や江戸屋敷の火災などのたびに、
薩摩藩を支え続けました。

それらの功労で、名字も芝姓を名乗ることが許され、
代々郷士格を与えられた芝家。
龍郷町の田畑家と並ぶ由緒ある名家です。

他にも好徳は、奄美で初めて毛織物を織らせ献納。

また伊須にオランダ船が漂着したことをうけ、
「島は自分たちで守るしかない」と
大銃を6年かけて鋳造。
その他、さまざまな功績が語り継がれています。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲ミチョーラ(道浦)の山中にひっそりとある芝家の墓群


芝家は厳島神社をミチョーラ(道浦)から阿室釜に移し、
その後、阿室釜の勝家とともに改築することに。

旅の神ともいわれ、五穀豊穣や
芝家と勝家の親睦と繁栄を祈願するためのもので、
かつては一般の人の参詣は許されなかったそう。

戦時中からは一般の参詣が許され、
他の集落からも武運長久の祈願などに訪れました。

現在、厳島神社は
篠川・阿室釜の間にあり
2つの集落を見守っています。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲厳島神社の篠川入り口近くにあった壕



古い時代に厳島神社があったミチョーラの山からは、
山沿いを通り
かつてアシャゲ・トネヤのあった
篠川小中学校付近へと結ぶカミミチが存在。

県が急傾斜工事をした際も、
家と山の間のカミミチは残して守られているそうです。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲公民館兼「篠川地区振興センター」。この山沿いを通ってカミミチがある


計さんによると
最初にミャーやアシャゲ・トネヤがあったのは、
大家橋(おおやばし)の道を挟んだ
空き地となっている場所。


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲大家橋


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲一番最初にミャーやアシャゲのあった場所と言われる空き地

その後、ミャー・アシャゲ・トネヤは
現在篠川バス停のある広場へ移動。
終戦後は、アシャゲやトネヤを
校舎として使っていたこともあるそうです。


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲2番目にミャー・アシャゲ・トネヤのあった篠川バス停付近。以前は広っぱだったが河川工事のために今の地形に

現在のミャーは、土俵がある場所。
保育所もかねている公民館は、
集落が昭和36年建設・平成5年改築したもの。
十五夜豊年祭はこちらで行なわれます。

篠川にいたノロ神は昭和35年頃に亡くなり、
最後のノロ神となったそう。
その後、アシャゲ・トネヤは、昭和38年頃に消滅。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲篠川・阿室釜は相撲も盛ん。篠川小中学校出身の川畑くんが、現在立浪部屋で「明生」として頑張っている



明治8年に「郷校」として設立した篠川小中学校。
瀬戸内町内でも歴史の長い学校です。
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


芝家の本家跡に建てられた「芝 好徳顕彰碑」
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


篠川沿いの「大屋通(フウヤドリ・オオヤドリ)」あたり
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり




明治時代、島のリーダーたちが
尋常小学校(4年制)を卒業した子供達のためにと、
名瀬に「大島高等小学東校」
古仁屋に「大島高等小学西校」を設立。

その「大島高等小学西校」が
明治23(1890)年に、篠川に移転しました。

奄美大島に名瀬と篠川の2つしかなかったため、
試験も難しく、
向学心に燃える生徒が集まったそうです。

加計呂麻島出身で日本初のロシア文学者・昇曙夢も
この大島高等小学西校の卒業生でした。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲篠川小中学校近くにある「篠川農学校」の碑


明治33年に大島高等小学西校が閉校し、
同地に篠川実業補修学校が開校。
そして明治36年には、篠川農学校と改称されました。

篠川農学校は、大正7年に閉校しましたが、
農業振興を目指し学んだ卒業生は、
台湾や満州でおおいに活躍したそうです。



ちなみに昇曙夢は、
阿室釜集落の白浜から大島高等小学西校へ通学。
作詞した「月の白浜」にも詠まれています。


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲阿室釜集落の小字「白浜」。シマグチでは「シリャハマ」。旧実久村から移住してきた人からできた集落



昔からタンカンが名産の篠川。
調査に訪れたこの時は最盛期で、
篠川郵便局にはひっきりなしに出荷のタンカンが持ち込まれていました。
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


集落のあちこちの無人販売所にタンカンが!安い
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


県道79号線から住用へつながる612号線(篠川下福線)へ入ると
左手にある商店「よしみ屋」。
こちらは比較的新しいお店。
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり


篠川の小字「摺勝」は、シマグチでは「スィガチ」。
摺勝には、かつてイビグチと呼ばれる潮止めがありました。
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲摺勝橋


摺勝より西の岬「シュンマハナ」付近にあった墓地には、
サンゴ石の墓がありました。
こちらは享保二(1717)年のものと確認。
篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲一番右がサンゴ石


聞き取り調査でうかがったみなさんは
90歳前後でどれも貴重なお話ばかり。
ここに書ききれないほどの、
興味深いお話がたくさんありました。




瀬戸内町を代表する名家・芝家が興り、
また奄美大島に2つしかなかった
高等小学校などが設置され、
多くの優れた人材を輩出。

進取の気風に富み、
向学な気質は現在も受け継がれています。

篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり

昔からさまざまな人が集い、
瀬戸内町西方の交通の要衝だからでしょうか、
オープンな雰囲気がある集落です。


登島さん、慶さん、積さん、計さん、
そして出会った篠川・阿室釜集落のみなさん
ご協力ありがとうございました。


篠川・阿室釜 シマ(集落)めぐり
▲県道612号篠川下福線の峠より篠川集落を望む






<参考文献>
・ 「瀬戸内町誌 歴史編」
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」
・ 「瀬戸内町の文化財を訪ねて」瀬戸内町教育委員会
・ 「瀬戸内町文化財保護審議委員会調査資料 篠川・阿室釜集落」



調査日:2014年2月13日(木)・18日(火)
奄美.asia 調査員 Y.K






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Posted by 水野康次郎 at 11:25│Comments(0)瀬戸内町の集落
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