2014年01月20日
節子集落 「イショシャ(漁師)」編
先日、節子集落について紹介しましたが、
漁業について興味深いお話があったので
追加で聞き取り調査に行きました。
お話しをうかがったのは、
大正15年生まれのSさん。

イショシャ(漁師)として
当時、追い込み漁をしていた時や、
ソーラ突きなどの一本釣りをおこなっていた時の
お話しをうかがいました。
節子の海は、リーフに囲まれた荒場で、
海藻が豊富にあったそうです。
昔は板付け舟を漕いで、
漁にでていたとのこと。
* * * * *
『1913(大正2)年、沖縄糸満出身の漁夫の移住により、
瀬戸内(東方)で追込網漁業が始まったと記録されています。
大正から昭和初期にかけて、古仁屋にはいくつかの組合が作られており、
追い込み漁が盛んにおこなわれていました』
「瀬戸内町誌 歴史編」より
* * * * * *
節子は、独自の追い込み漁をしていた地域。
漁場は「カツオゴモリ」と呼ばれ、
大切に利用されてきました。
もともとは、
最初に漁場を発見した人が
親戚などで8人の組合を作ったとのこと。
追い込み漁でとれる魚といえば、
アカウルメ(タカサゴなど)や
アオウルメ(アジの仲間)などを思い浮かべますが、
この地域で追い込んでいた魚は、
なんとカツオ。
しかもカツオの中でも珍しい
腹にテンテンがあり、
脂ののった「ウブス(スマカツオ)」です。
お話を聞いていると
当時の海の豊かさが目に浮かんできます。
満潮時、
カツオゴモリと呼ばれるリーフに入った魚を網で囲い、
干潮時に追い込むという漁法。
ある季節になったら、
その漁場に4名で舟を漕いでいく。
漁場に着き、たくさん魚がいたら、
岩に帆をあげる。
岸にいる残りの仲間4名が
帆を確認すると、
応援のため舟で向かい
合流して魚を獲ります。
Sさんは、その中でも深く潜り、
網などを設置する役割で手伝っていたそうです。

また、Sさんは奄美市住用町の市崎から
瀬戸内町の皆津崎までを漁場にしていたとのこと。
天気のいい日は、外洋で漁をしていました。
海中の釣場を当てるために、
加計呂麻島や与路島、住用などの遠くの山を利用して
「ヤマアテ」を行っていました。
アテは、
特徴のある地形を目視で重ねることで、
その線上にある漁場を探すためのもの。
ヤマアテのできないような
霧がかかったり天気の悪い日には、
「ジアテ」といって
各岬や岩礁、瀬などを利用していました。
この時に、目当てにしていたアティ石や岩、瀬、浜などの
昔からの呼び名をご存知ということで
大きな地図を持って訪ねました。

節子から真崎までの間にある、
小さな岩ひとつひとつの名前を
しっかりと意味を交えて説明してくださいました。

▲節子集落近くの岩「トウスィガク」。
Sさんは、現在舟には乗っていませんが、
その当時の光景を思い出しながら
丁寧にお話しをしてくださる姿がとても印象的でした。
そのなかには、
クジラディ・・・鯨には見えないが鯨とついてる岩
マーディ・・・馬の背に見える?岩
という岩があったりと、
面白くお話を聞くことができました。
皆津崎にある大きな瀬は、
節子では、ニンギョウディ、
嘉鉄では、グンカンディ、と言われています。
地域によって呼び名が違うのも興味深いですね。
こちらは、ご自宅にあった「ソーラ突き」の写真。
ソーラは、カマスサワラ(サバ科)。

ソーラ突きは、
おとなりの奄美市住用町で
伝統漁法として受け継がれていますが、
節子集落でもソーラ突きが行われていたんですね。
Sさんは、追い込み漁をやめた後、
ソーラ突きや一本釣りを始めることとなります。
『遠くからみえたソーラに、
木で作った餌を生きてるように見せながら近くまで寄せるわけよ。
餌を動かしすぎると、ソーラも走りまわって動きすぎるから突けない。
だから、うまく餌を動かして、
近くに寄せてから船上から突くわけよ』。
身振り手振りを交えて、
大変貴重なお話をしてくださいました。
*
「嵐にあったことはないですか?」との質問に、
風の呼び名なども教えてくださいました。
『ニシマルク』・・・いまでいう低気圧だろう
『ターナーニシ』・・・北風
『ナーニシ』・・・北東風
『クチガティ(クチカゼ)』・・・東風
『クチミナム』・・・南東風
『アイカディ(ハイカゼ)』・・・南風
『ニシ』・・・西風
などなど
島で一般的に、ニシは北風のことを言いますが、
Sさんが指す方角は西でした。
Sさんは普段の漁をやっていく中で、
必要な風向きを地形などから、
独自の解釈をして呼んでいるようです。
方言の発音が難しかったのですが、
おそらく、他の地域でも呼び名が微妙に違うのかもしれません。
今回は、イショシャの
貴重なお話しを聞くことができました。
今後もこのような情報が集まればおもしろいですね。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 T.T
漁業について興味深いお話があったので
追加で聞き取り調査に行きました。
お話しをうかがったのは、
大正15年生まれのSさん。

イショシャ(漁師)として
当時、追い込み漁をしていた時や、
ソーラ突きなどの一本釣りをおこなっていた時の
お話しをうかがいました。
節子の海は、リーフに囲まれた荒場で、
海藻が豊富にあったそうです。
昔は板付け舟を漕いで、
漁にでていたとのこと。
* * * * *
『1913(大正2)年、沖縄糸満出身の漁夫の移住により、
瀬戸内(東方)で追込網漁業が始まったと記録されています。
大正から昭和初期にかけて、古仁屋にはいくつかの組合が作られており、
追い込み漁が盛んにおこなわれていました』
「瀬戸内町誌 歴史編」より
* * * * * *
節子は、独自の追い込み漁をしていた地域。
漁場は「カツオゴモリ」と呼ばれ、
大切に利用されてきました。
もともとは、
最初に漁場を発見した人が
親戚などで8人の組合を作ったとのこと。
追い込み漁でとれる魚といえば、
アカウルメ(タカサゴなど)や
アオウルメ(アジの仲間)などを思い浮かべますが、
この地域で追い込んでいた魚は、
なんとカツオ。
しかもカツオの中でも珍しい
腹にテンテンがあり、
脂ののった「ウブス(スマカツオ)」です。
お話を聞いていると
当時の海の豊かさが目に浮かんできます。
満潮時、
カツオゴモリと呼ばれるリーフに入った魚を網で囲い、
干潮時に追い込むという漁法。
ある季節になったら、
その漁場に4名で舟を漕いでいく。
漁場に着き、たくさん魚がいたら、
岩に帆をあげる。
岸にいる残りの仲間4名が
帆を確認すると、
応援のため舟で向かい
合流して魚を獲ります。
Sさんは、その中でも深く潜り、
網などを設置する役割で手伝っていたそうです。

また、Sさんは奄美市住用町の市崎から
瀬戸内町の皆津崎までを漁場にしていたとのこと。
天気のいい日は、外洋で漁をしていました。
海中の釣場を当てるために、
加計呂麻島や与路島、住用などの遠くの山を利用して
「ヤマアテ」を行っていました。
アテは、
特徴のある地形を目視で重ねることで、
その線上にある漁場を探すためのもの。
ヤマアテのできないような
霧がかかったり天気の悪い日には、
「ジアテ」といって
各岬や岩礁、瀬などを利用していました。
この時に、目当てにしていたアティ石や岩、瀬、浜などの
昔からの呼び名をご存知ということで
大きな地図を持って訪ねました。

節子から真崎までの間にある、
小さな岩ひとつひとつの名前を
しっかりと意味を交えて説明してくださいました。
▲節子集落近くの岩「トウスィガク」。
Sさんは、現在舟には乗っていませんが、
その当時の光景を思い出しながら
丁寧にお話しをしてくださる姿がとても印象的でした。
そのなかには、
クジラディ・・・鯨には見えないが鯨とついてる岩
マーディ・・・馬の背に見える?岩
という岩があったりと、
面白くお話を聞くことができました。
皆津崎にある大きな瀬は、
節子では、ニンギョウディ、
嘉鉄では、グンカンディ、と言われています。
地域によって呼び名が違うのも興味深いですね。
こちらは、ご自宅にあった「ソーラ突き」の写真。
ソーラは、カマスサワラ(サバ科)。
ソーラ突きは、
おとなりの奄美市住用町で
伝統漁法として受け継がれていますが、
節子集落でもソーラ突きが行われていたんですね。
Sさんは、追い込み漁をやめた後、
ソーラ突きや一本釣りを始めることとなります。
『遠くからみえたソーラに、
木で作った餌を生きてるように見せながら近くまで寄せるわけよ。
餌を動かしすぎると、ソーラも走りまわって動きすぎるから突けない。
だから、うまく餌を動かして、
近くに寄せてから船上から突くわけよ』。
身振り手振りを交えて、
大変貴重なお話をしてくださいました。
*
「嵐にあったことはないですか?」との質問に、
風の呼び名なども教えてくださいました。
『ニシマルク』・・・いまでいう低気圧だろう
『ターナーニシ』・・・北風
『ナーニシ』・・・北東風
『クチガティ(クチカゼ)』・・・東風
『クチミナム』・・・南東風
『アイカディ(ハイカゼ)』・・・南風
『ニシ』・・・西風
などなど
島で一般的に、ニシは北風のことを言いますが、
Sさんが指す方角は西でした。
Sさんは普段の漁をやっていく中で、
必要な風向きを地形などから、
独自の解釈をして呼んでいるようです。
方言の発音が難しかったのですが、
おそらく、他の地域でも呼び名が微妙に違うのかもしれません。
今回は、イショシャの
貴重なお話しを聞くことができました。
今後もこのような情報が集まればおもしろいですね。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 T.T