2013年12月18日
網野子 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐって、
昔話などの聞き取り調査。
10月22日(火)に、
網野子(あみのこ)集落へ行ってきました。
シマグチでの呼びかたは、「アンミョホ」。
町外のかたでも、
名瀬方面から国道58号線を通って瀬戸内町へ来る時に目にする
「網野子峠」で、その名をご存知のかたも多いかと思います。
集落は、網野子峠の麓にあり、
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる山深いエリアの1つ。
人口91人、世帯数59戸(平成25年11月末現在)です。

▲現在工事中の「網野子トンネル」入口が集落の畑より望める。
この写真の畑のあたりは「祖(そ)」と呼ばれるところ。
網野子トンネル入口の上あたりの山が「ウチスギ」、
右手の高い山は「ノーヤマ」。
* *
十五夜豊年祭で披露される伝統芸能「アンドンデー」は、
町指定無形民俗文化財。
女性のみで踊られます。
かつて網野子に住んでいた役人の家で、
娘(玉女加那)が生まれたとき、
数人の使用人がアンドン(行灯)を持って即興的に踊ったのが始まり。
またその娘の病気が治った快気祝いに踊られたとも伝わっています。
近年踊られていないようですが、
豊年祭で披露されるもう一つの踊りが
「ムンジュル」。
麦わらで編んだ畑仕事に使うムンジュル笠をかぶります。
こちらも女性だけで踊りますが、
女性が男性の着物姿に扮装(!)して、
男女の組に分かれます。
沖縄に、ムンジュル笠やムンジュル節があり、
琉球とのつながりもかいま見える芸能。
区長さんによると、
「来年あたり『ムンジュル』を復活させよう」と考えているそう。
楽しみですね。
* *
そんな網野子集落で、
まずはじめに聞き取り調査にうかがったのは、
集落の女性陣たちが集まっていた会合の場でした。
ワイワイとにぎやかに行われていた、
その名も「ゆらおう会」。

集落には、一人住まいの老人の方も多いため
みんなで集まる場を設け、
おしゃべりなどして楽しい時間を過ごしながら
認知症の防止や健康状態の把握をしようと、
始まったのが毎月10日の「お達者会」。
なんとそれだけでは物足りなくなって(笑)、
毎月20日には「ゆらおう会」も始まり、
月2回の定期的な集まりが開催されています。
今でいう「網野子女子会」ですね。
われわれがお邪魔した「ゆらおう会」では、
みんなでお弁当を食べた後に、シマ唄、新民謡・演歌などを歌ったり、踊ったり。
森区長さんの「みなさんこの日を楽しみに待っている」という言葉が
良く分かる盛り上がりでした。
* *
集まったみなさんの中でお話をうかがったのは、
Tさん・昭和5年生まれ、
Fさん・昭和9年生まれ、
Kさん・昭和7年生まれ、
の3名。
教えていただいたのは、
・集落の小字や畑の名前
・川の方言名
・食べ物の話
・戦争時代の話
・旧暦行事の過ごしかた
など。

▲聞き取り調査に協力してくださった、手前からTさん、Fさん、Kさん
印象的なお話としては、
◯現在でも国道58号線が通る網野子峠は、
高低差があり急カーブが続く難所だが、、
その昔、人々が歩いて行き来していた時代には峠に休憩所の「チャヤ」があった。
◯網野子峠の近くに、「チャエン」と呼ばれるお茶畑を網野子青年団で管理。
その場で製茶などもして、
十五夜豊年祭の時にお茶として出していた。
◯網野子の人は、イショ(昼間に磯場でタコ・貝などを採取)には行くけど、
イザリ(冬の夜の潮干狩り)には行かない。
◯戦時中は、自分自分の家の庭に防空壕を掘ったりしていた。
集落全体としては網野子峠の下あたりに「ジンチ」と呼ばれる場所を作り、
そこに3日ほど疎開したことも。
小屋を作り、味噌ガメや食糧や着替えを持って行き、本当に難儀したそう。
当時小学生だったKさんのお宅は、家一軒を解体し、まるごと山のほうに移動。
当時移動代は150円。だが、移動した途端に終戦になったそう。
◯網野子の人の大好物「クイニャ」料理。
クイニャは海藻で、寒天のように固まるもの。
魚のアラでダシをとって、豆などの具を加え、クイニャを炊いて固めて食べる。
お祝いにもかかせない料理。
クイニャは昔はいっぱい網野子の海にあったのだが、
もうとれないので、作る人も全然いない。
などなど。
昭和ヒトケタ代のみなさん、
昔の、この山深い網野子集落での暮らしは「とにかく難儀ばかり」だったそう。
食生活も「今は、毎日がお正月のよう」との言葉も身にしみました。

▲昭和31年に撮影された網野子集落の全景写真を見て、話も弾む
* *
みなさんからお話をうかがった後は、
集落の中を実際に見て歩き、記録していきます。

▲網野子公民館。前の広場は「ミャー」と呼ばれ、土俵もある。
豊年祭・敬老会はここで行われる。目の前は海

▲公民館前のガジュマルの根元にあった2つの石。力石と見られるもの

▲この縦の通りを境界として、集落は右側が「アガレ(東)」、左側が「イリ(西)」。
集落は、通りごとにも5班に分かれていて
「通り会」と呼ばれています。
海から山方向にかけての縦の通りにごとに分かれていて、
その通りに門・玄関が面している家が同じ通り会に所属。
かつては、その通り会ごとに旧暦4月の行事「ハマオレ」を楽しんでいたそう。

▲集落内のブロック塀に書かれている、ちょっと気になるこの黄色い文字・・。
秘密の暗号?かと思いきや、消火栓からホースをのばすための印

▲旧公民館。現在も倉庫として使用。この手前には、塩炊き小屋があった

▲T字路にあったので、石敢當のようにも見える。集落のかたは排水口を止めただけなのでは?と

▲集落西側、勝浦方面へとつながる町道(通称「網野子道」)付近は、
「打畑(ウチバテヘ)」と呼ばれるところ

▲真ん中に見えるのが集落西側の小さな浜「ハルバマ」。
岬を越えると勝浦の浜「カラマ」で、奥に見える集落は勝浦集落

▲網野子の厳島神社は、清水の厳島神社からの分神。平成10年に改築

▲厳島神社境内にある戦没者慰霊碑。12名のかたの名前が刻まれている

▲厳島神社の祭壇。清潔に保たれ、榊や水、酒なども供えられており、
集落のかたが大事にしているのがよく分かる

▲祭壇の横に、イビガナシ。

▲厳島神社のそばにある、飲水汲み場の「ソツ」。
ほかにも「ソツノコ」「ソティミズ」と呼ぶかたも。
囲いの右部には「御行年記念」、左部は「昭和四年八月廿日」、
上部には桜が刻まれていた
* *
集落を歩いていくなかで、
大正15年生まれのTさん(男性)にもお話をうかがうことができました。
もともと古仁屋出身で、16歳の時に満州へ開拓団として行き、
その後、徳之島で終戦を迎えたTさん。
戦後は、一度奄美に戻った後、沖縄で仕事。
昭和28年の奄美群島本土復帰に伴い、
奄美大島に戻り、網野子に住み始めたそう。
網野子はとくに林業が盛んだったため、
Tさんも昭和40年代頃まで林業に従事。
そのため山の名前に詳しいかたでした。
Tさんが林業をしていた頃は、網野子の人も
山仕事をしてた人がほとんどだったそう。
終戦後しばらくは、空襲で焼け野原になった沖縄からの材木の引き合いが多く、
網野子の林業はその頃が全盛期。
古仁屋に製材所、
となりの勝浦集落に材木を買う人がいて、
山から運び出された木を、そのまま道で現金買いしてたことも。
昭和30年代になると、道を作るのに公共事業が始まって、
山仕事する人も減ったとのことでした。

▲網野子川の下流近くにあった墓地にて。土台がレンガになったお墓。
集落をはさんで対角線上の「打畑(ウチバテヘ)」にも墓地がある。

▲集落東側にある小さな浜は「小浜(クバマ)」。突端の岬は、「トグラ崎」。その上部は「トグラ山」

▲「クバマ」から裏手の「クビンジュラ」と呼ばれる場所に続く道。
クビンジュラはかつて貝が豊富にとれたいい場所で、網野子の人たちが行っていた

▲電柱のあたりが「百郡(モモグリ)」。このあたりで酒を作っていたそう

▲網野子大橋より少し上の部分は、上流「ウンコ」=上の川(コ)と呼ばれる場所

▲網野子大橋と網野子橋の間ぐらいが、中流「ナハンコ」=中の川(コ)

▲網野子橋の下部分は、水量も豊富。洗濯、野菜洗いなどなんでもしていた

▲網野子橋からだいぶ下流が、「シャンコ」=下の川(コ)
現在、全長4,243mにも及ぶ「網野子トンネル」は、
平成26年度の供用開始を目標に現在も整備中。
このトンネル、施工中のトンネルを除けば県内最長。
奄美大島最長の新和瀬トンネル(延長2,435m)よりも約1,800mも上回っています。
網野子トンネルが供用開始となれば、
その出入口となる網野子の様子や風景も変化していくかもしれません。
人口は100人切っていますが、
年間の旧暦行事も集落で資料としてまとめており、
網野子の伝統を絶やさないようにと伝えている集落。

▲集落正面の浜からは、勝浦、阿木名、伊須の集落も見えるが、
昔は他シマとの行き来や結婚は少なかったという
伝統芸能「アンドンデー」や「ムンジュル」、
そして毎月の「お達者会」「ゆらおう会」に象徴されるように、
網野子はとにかく女性が元気!
集落の中で出会うかたがたみなさんが、
われわれの聞き取り調査を温かく迎えていただきました。
今回、聞き取り調査にご協力いただいた
網野子集落のみなさま、
本当にありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 : 2013年10月22日(火)、31日(木)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 網野子集落 (鹿児島県大島郡瀬戸内町網野子)
奄美.asia / 調査員 Y.K
昔話などの聞き取り調査。
10月22日(火)に、
網野子(あみのこ)集落へ行ってきました。
シマグチでの呼びかたは、「アンミョホ」。
町外のかたでも、
名瀬方面から国道58号線を通って瀬戸内町へ来る時に目にする
「網野子峠」で、その名をご存知のかたも多いかと思います。
集落は、網野子峠の麓にあり、
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる山深いエリアの1つ。
人口91人、世帯数59戸(平成25年11月末現在)です。

▲現在工事中の「網野子トンネル」入口が集落の畑より望める。
この写真の畑のあたりは「祖(そ)」と呼ばれるところ。
網野子トンネル入口の上あたりの山が「ウチスギ」、
右手の高い山は「ノーヤマ」。
* *
十五夜豊年祭で披露される伝統芸能「アンドンデー」は、
町指定無形民俗文化財。
女性のみで踊られます。
かつて網野子に住んでいた役人の家で、
娘(玉女加那)が生まれたとき、
数人の使用人がアンドン(行灯)を持って即興的に踊ったのが始まり。
またその娘の病気が治った快気祝いに踊られたとも伝わっています。
近年踊られていないようですが、
豊年祭で披露されるもう一つの踊りが
「ムンジュル」。
麦わらで編んだ畑仕事に使うムンジュル笠をかぶります。
こちらも女性だけで踊りますが、
女性が男性の着物姿に扮装(!)して、
男女の組に分かれます。
沖縄に、ムンジュル笠やムンジュル節があり、
琉球とのつながりもかいま見える芸能。
区長さんによると、
「来年あたり『ムンジュル』を復活させよう」と考えているそう。
楽しみですね。
* *
そんな網野子集落で、
まずはじめに聞き取り調査にうかがったのは、
集落の女性陣たちが集まっていた会合の場でした。
ワイワイとにぎやかに行われていた、
その名も「ゆらおう会」。

集落には、一人住まいの老人の方も多いため
みんなで集まる場を設け、
おしゃべりなどして楽しい時間を過ごしながら
認知症の防止や健康状態の把握をしようと、
始まったのが毎月10日の「お達者会」。
なんとそれだけでは物足りなくなって(笑)、
毎月20日には「ゆらおう会」も始まり、
月2回の定期的な集まりが開催されています。
今でいう「網野子女子会」ですね。
われわれがお邪魔した「ゆらおう会」では、
みんなでお弁当を食べた後に、シマ唄、新民謡・演歌などを歌ったり、踊ったり。
森区長さんの「みなさんこの日を楽しみに待っている」という言葉が
良く分かる盛り上がりでした。
* *
集まったみなさんの中でお話をうかがったのは、
Tさん・昭和5年生まれ、
Fさん・昭和9年生まれ、
Kさん・昭和7年生まれ、
の3名。
教えていただいたのは、
・集落の小字や畑の名前
・川の方言名
・食べ物の話
・戦争時代の話
・旧暦行事の過ごしかた
など。

▲聞き取り調査に協力してくださった、手前からTさん、Fさん、Kさん
印象的なお話としては、
◯現在でも国道58号線が通る網野子峠は、
高低差があり急カーブが続く難所だが、、
その昔、人々が歩いて行き来していた時代には峠に休憩所の「チャヤ」があった。
◯網野子峠の近くに、「チャエン」と呼ばれるお茶畑を網野子青年団で管理。
その場で製茶などもして、
十五夜豊年祭の時にお茶として出していた。
◯網野子の人は、イショ(昼間に磯場でタコ・貝などを採取)には行くけど、
イザリ(冬の夜の潮干狩り)には行かない。
◯戦時中は、自分自分の家の庭に防空壕を掘ったりしていた。
集落全体としては網野子峠の下あたりに「ジンチ」と呼ばれる場所を作り、
そこに3日ほど疎開したことも。
小屋を作り、味噌ガメや食糧や着替えを持って行き、本当に難儀したそう。
当時小学生だったKさんのお宅は、家一軒を解体し、まるごと山のほうに移動。
当時移動代は150円。だが、移動した途端に終戦になったそう。
◯網野子の人の大好物「クイニャ」料理。
クイニャは海藻で、寒天のように固まるもの。
魚のアラでダシをとって、豆などの具を加え、クイニャを炊いて固めて食べる。
お祝いにもかかせない料理。
クイニャは昔はいっぱい網野子の海にあったのだが、
もうとれないので、作る人も全然いない。
などなど。
昭和ヒトケタ代のみなさん、
昔の、この山深い網野子集落での暮らしは「とにかく難儀ばかり」だったそう。
食生活も「今は、毎日がお正月のよう」との言葉も身にしみました。

▲昭和31年に撮影された網野子集落の全景写真を見て、話も弾む
* *
みなさんからお話をうかがった後は、
集落の中を実際に見て歩き、記録していきます。

▲網野子公民館。前の広場は「ミャー」と呼ばれ、土俵もある。
豊年祭・敬老会はここで行われる。目の前は海

▲公民館前のガジュマルの根元にあった2つの石。力石と見られるもの

▲この縦の通りを境界として、集落は右側が「アガレ(東)」、左側が「イリ(西)」。
集落は、通りごとにも5班に分かれていて
「通り会」と呼ばれています。
海から山方向にかけての縦の通りにごとに分かれていて、
その通りに門・玄関が面している家が同じ通り会に所属。
かつては、その通り会ごとに旧暦4月の行事「ハマオレ」を楽しんでいたそう。

▲集落内のブロック塀に書かれている、ちょっと気になるこの黄色い文字・・。
秘密の暗号?かと思いきや、消火栓からホースをのばすための印

▲旧公民館。現在も倉庫として使用。この手前には、塩炊き小屋があった

▲T字路にあったので、石敢當のようにも見える。集落のかたは排水口を止めただけなのでは?と

▲集落西側、勝浦方面へとつながる町道(通称「網野子道」)付近は、
「打畑(ウチバテヘ)」と呼ばれるところ

▲真ん中に見えるのが集落西側の小さな浜「ハルバマ」。
岬を越えると勝浦の浜「カラマ」で、奥に見える集落は勝浦集落

▲網野子の厳島神社は、清水の厳島神社からの分神。平成10年に改築

▲厳島神社境内にある戦没者慰霊碑。12名のかたの名前が刻まれている

▲厳島神社の祭壇。清潔に保たれ、榊や水、酒なども供えられており、
集落のかたが大事にしているのがよく分かる

▲祭壇の横に、イビガナシ。

▲厳島神社のそばにある、飲水汲み場の「ソツ」。
ほかにも「ソツノコ」「ソティミズ」と呼ぶかたも。
囲いの右部には「御行年記念」、左部は「昭和四年八月廿日」、
上部には桜が刻まれていた
* *
集落を歩いていくなかで、
大正15年生まれのTさん(男性)にもお話をうかがうことができました。
もともと古仁屋出身で、16歳の時に満州へ開拓団として行き、
その後、徳之島で終戦を迎えたTさん。
戦後は、一度奄美に戻った後、沖縄で仕事。
昭和28年の奄美群島本土復帰に伴い、
奄美大島に戻り、網野子に住み始めたそう。
網野子はとくに林業が盛んだったため、
Tさんも昭和40年代頃まで林業に従事。
そのため山の名前に詳しいかたでした。
Tさんが林業をしていた頃は、網野子の人も
山仕事をしてた人がほとんどだったそう。
終戦後しばらくは、空襲で焼け野原になった沖縄からの材木の引き合いが多く、
網野子の林業はその頃が全盛期。
古仁屋に製材所、
となりの勝浦集落に材木を買う人がいて、
山から運び出された木を、そのまま道で現金買いしてたことも。
昭和30年代になると、道を作るのに公共事業が始まって、
山仕事する人も減ったとのことでした。

▲網野子川の下流近くにあった墓地にて。土台がレンガになったお墓。
集落をはさんで対角線上の「打畑(ウチバテヘ)」にも墓地がある。

▲集落東側にある小さな浜は「小浜(クバマ)」。突端の岬は、「トグラ崎」。その上部は「トグラ山」

▲「クバマ」から裏手の「クビンジュラ」と呼ばれる場所に続く道。
クビンジュラはかつて貝が豊富にとれたいい場所で、網野子の人たちが行っていた

▲電柱のあたりが「百郡(モモグリ)」。このあたりで酒を作っていたそう

▲網野子大橋より少し上の部分は、上流「ウンコ」=上の川(コ)と呼ばれる場所

▲網野子大橋と網野子橋の間ぐらいが、中流「ナハンコ」=中の川(コ)

▲網野子橋の下部分は、水量も豊富。洗濯、野菜洗いなどなんでもしていた

▲網野子橋からだいぶ下流が、「シャンコ」=下の川(コ)
現在、全長4,243mにも及ぶ「網野子トンネル」は、
平成26年度の供用開始を目標に現在も整備中。
このトンネル、施工中のトンネルを除けば県内最長。
奄美大島最長の新和瀬トンネル(延長2,435m)よりも約1,800mも上回っています。
網野子トンネルが供用開始となれば、
その出入口となる網野子の様子や風景も変化していくかもしれません。
人口は100人切っていますが、
年間の旧暦行事も集落で資料としてまとめており、
網野子の伝統を絶やさないようにと伝えている集落。

▲集落正面の浜からは、勝浦、阿木名、伊須の集落も見えるが、
昔は他シマとの行き来や結婚は少なかったという
伝統芸能「アンドンデー」や「ムンジュル」、
そして毎月の「お達者会」「ゆらおう会」に象徴されるように、
網野子はとにかく女性が元気!
集落の中で出会うかたがたみなさんが、
われわれの聞き取り調査を温かく迎えていただきました。
今回、聞き取り調査にご協力いただいた
網野子集落のみなさま、
本当にありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 : 2013年10月22日(火)、31日(木)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 網野子集落 (鹿児島県大島郡瀬戸内町網野子)
奄美.asia / 調査員 Y.K