2014年01月20日
節子集落 「イショシャ(漁師)」編
先日、節子集落について紹介しましたが、
漁業について興味深いお話があったので
追加で聞き取り調査に行きました。
お話しをうかがったのは、
大正15年生まれのSさん。

イショシャ(漁師)として
当時、追い込み漁をしていた時や、
ソーラ突きなどの一本釣りをおこなっていた時の
お話しをうかがいました。
節子の海は、リーフに囲まれた荒場で、
海藻が豊富にあったそうです。
昔は板付け舟を漕いで、
漁にでていたとのこと。
* * * * *
『1913(大正2)年、沖縄糸満出身の漁夫の移住により、
瀬戸内(東方)で追込網漁業が始まったと記録されています。
大正から昭和初期にかけて、古仁屋にはいくつかの組合が作られており、
追い込み漁が盛んにおこなわれていました』
「瀬戸内町誌 歴史編」より
* * * * * *
節子は、独自の追い込み漁をしていた地域。
漁場は「カツオゴモリ」と呼ばれ、
大切に利用されてきました。
もともとは、
最初に漁場を発見した人が
親戚などで8人の組合を作ったとのこと。
追い込み漁でとれる魚といえば、
アカウルメ(タカサゴなど)や
アオウルメ(アジの仲間)などを思い浮かべますが、
この地域で追い込んでいた魚は、
なんとカツオ。
しかもカツオの中でも珍しい
腹にテンテンがあり、
脂ののった「ウブス(スマカツオ)」です。
お話を聞いていると
当時の海の豊かさが目に浮かんできます。
満潮時、
カツオゴモリと呼ばれるリーフに入った魚を網で囲い、
干潮時に追い込むという漁法。
ある季節になったら、
その漁場に4名で舟を漕いでいく。
漁場に着き、たくさん魚がいたら、
岩に帆をあげる。
岸にいる残りの仲間4名が
帆を確認すると、
応援のため舟で向かい
合流して魚を獲ります。
Sさんは、その中でも深く潜り、
網などを設置する役割で手伝っていたそうです。

また、Sさんは奄美市住用町の市崎から
瀬戸内町の皆津崎までを漁場にしていたとのこと。
天気のいい日は、外洋で漁をしていました。
海中の釣場を当てるために、
加計呂麻島や与路島、住用などの遠くの山を利用して
「ヤマアテ」を行っていました。
アテは、
特徴のある地形を目視で重ねることで、
その線上にある漁場を探すためのもの。
ヤマアテのできないような
霧がかかったり天気の悪い日には、
「ジアテ」といって
各岬や岩礁、瀬などを利用していました。
この時に、目当てにしていたアティ石や岩、瀬、浜などの
昔からの呼び名をご存知ということで
大きな地図を持って訪ねました。

節子から真崎までの間にある、
小さな岩ひとつひとつの名前を
しっかりと意味を交えて説明してくださいました。

▲節子集落近くの岩「トウスィガク」。
Sさんは、現在舟には乗っていませんが、
その当時の光景を思い出しながら
丁寧にお話しをしてくださる姿がとても印象的でした。
そのなかには、
クジラディ・・・鯨には見えないが鯨とついてる岩
マーディ・・・馬の背に見える?岩
という岩があったりと、
面白くお話を聞くことができました。
皆津崎にある大きな瀬は、
節子では、ニンギョウディ、
嘉鉄では、グンカンディ、と言われています。
地域によって呼び名が違うのも興味深いですね。
こちらは、ご自宅にあった「ソーラ突き」の写真。
ソーラは、カマスサワラ(サバ科)。

ソーラ突きは、
おとなりの奄美市住用町で
伝統漁法として受け継がれていますが、
節子集落でもソーラ突きが行われていたんですね。
Sさんは、追い込み漁をやめた後、
ソーラ突きや一本釣りを始めることとなります。
『遠くからみえたソーラに、
木で作った餌を生きてるように見せながら近くまで寄せるわけよ。
餌を動かしすぎると、ソーラも走りまわって動きすぎるから突けない。
だから、うまく餌を動かして、
近くに寄せてから船上から突くわけよ』。
身振り手振りを交えて、
大変貴重なお話をしてくださいました。
*
「嵐にあったことはないですか?」との質問に、
風の呼び名なども教えてくださいました。
『ニシマルク』・・・いまでいう低気圧だろう
『ターナーニシ』・・・北風
『ナーニシ』・・・北東風
『クチガティ(クチカゼ)』・・・東風
『クチミナム』・・・南東風
『アイカディ(ハイカゼ)』・・・南風
『ニシ』・・・西風
などなど
島で一般的に、ニシは北風のことを言いますが、
Sさんが指す方角は西でした。
Sさんは普段の漁をやっていく中で、
必要な風向きを地形などから、
独自の解釈をして呼んでいるようです。
方言の発音が難しかったのですが、
おそらく、他の地域でも呼び名が微妙に違うのかもしれません。
今回は、イショシャの
貴重なお話しを聞くことができました。
今後もこのような情報が集まればおもしろいですね。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 T.T
漁業について興味深いお話があったので
追加で聞き取り調査に行きました。
お話しをうかがったのは、
大正15年生まれのSさん。

イショシャ(漁師)として
当時、追い込み漁をしていた時や、
ソーラ突きなどの一本釣りをおこなっていた時の
お話しをうかがいました。
節子の海は、リーフに囲まれた荒場で、
海藻が豊富にあったそうです。
昔は板付け舟を漕いで、
漁にでていたとのこと。
* * * * *
『1913(大正2)年、沖縄糸満出身の漁夫の移住により、
瀬戸内(東方)で追込網漁業が始まったと記録されています。
大正から昭和初期にかけて、古仁屋にはいくつかの組合が作られており、
追い込み漁が盛んにおこなわれていました』
「瀬戸内町誌 歴史編」より
* * * * * *
節子は、独自の追い込み漁をしていた地域。
漁場は「カツオゴモリ」と呼ばれ、
大切に利用されてきました。
もともとは、
最初に漁場を発見した人が
親戚などで8人の組合を作ったとのこと。
追い込み漁でとれる魚といえば、
アカウルメ(タカサゴなど)や
アオウルメ(アジの仲間)などを思い浮かべますが、
この地域で追い込んでいた魚は、
なんとカツオ。
しかもカツオの中でも珍しい
腹にテンテンがあり、
脂ののった「ウブス(スマカツオ)」です。
お話を聞いていると
当時の海の豊かさが目に浮かんできます。
満潮時、
カツオゴモリと呼ばれるリーフに入った魚を網で囲い、
干潮時に追い込むという漁法。
ある季節になったら、
その漁場に4名で舟を漕いでいく。
漁場に着き、たくさん魚がいたら、
岩に帆をあげる。
岸にいる残りの仲間4名が
帆を確認すると、
応援のため舟で向かい
合流して魚を獲ります。
Sさんは、その中でも深く潜り、
網などを設置する役割で手伝っていたそうです。

また、Sさんは奄美市住用町の市崎から
瀬戸内町の皆津崎までを漁場にしていたとのこと。
天気のいい日は、外洋で漁をしていました。
海中の釣場を当てるために、
加計呂麻島や与路島、住用などの遠くの山を利用して
「ヤマアテ」を行っていました。
アテは、
特徴のある地形を目視で重ねることで、
その線上にある漁場を探すためのもの。
ヤマアテのできないような
霧がかかったり天気の悪い日には、
「ジアテ」といって
各岬や岩礁、瀬などを利用していました。
この時に、目当てにしていたアティ石や岩、瀬、浜などの
昔からの呼び名をご存知ということで
大きな地図を持って訪ねました。

節子から真崎までの間にある、
小さな岩ひとつひとつの名前を
しっかりと意味を交えて説明してくださいました。
▲節子集落近くの岩「トウスィガク」。
Sさんは、現在舟には乗っていませんが、
その当時の光景を思い出しながら
丁寧にお話しをしてくださる姿がとても印象的でした。
そのなかには、
クジラディ・・・鯨には見えないが鯨とついてる岩
マーディ・・・馬の背に見える?岩
という岩があったりと、
面白くお話を聞くことができました。
皆津崎にある大きな瀬は、
節子では、ニンギョウディ、
嘉鉄では、グンカンディ、と言われています。
地域によって呼び名が違うのも興味深いですね。
こちらは、ご自宅にあった「ソーラ突き」の写真。
ソーラは、カマスサワラ(サバ科)。
ソーラ突きは、
おとなりの奄美市住用町で
伝統漁法として受け継がれていますが、
節子集落でもソーラ突きが行われていたんですね。
Sさんは、追い込み漁をやめた後、
ソーラ突きや一本釣りを始めることとなります。
『遠くからみえたソーラに、
木で作った餌を生きてるように見せながら近くまで寄せるわけよ。
餌を動かしすぎると、ソーラも走りまわって動きすぎるから突けない。
だから、うまく餌を動かして、
近くに寄せてから船上から突くわけよ』。
身振り手振りを交えて、
大変貴重なお話をしてくださいました。
*
「嵐にあったことはないですか?」との質問に、
風の呼び名なども教えてくださいました。
『ニシマルク』・・・いまでいう低気圧だろう
『ターナーニシ』・・・北風
『ナーニシ』・・・北東風
『クチガティ(クチカゼ)』・・・東風
『クチミナム』・・・南東風
『アイカディ(ハイカゼ)』・・・南風
『ニシ』・・・西風
などなど
島で一般的に、ニシは北風のことを言いますが、
Sさんが指す方角は西でした。
Sさんは普段の漁をやっていく中で、
必要な風向きを地形などから、
独自の解釈をして呼んでいるようです。
方言の発音が難しかったのですが、
おそらく、他の地域でも呼び名が微妙に違うのかもしれません。
今回は、イショシャの
貴重なお話しを聞くことができました。
今後もこのような情報が集まればおもしろいですね。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 T.T
2014年01月10日
節子 シマ(集落)めぐり
奄美大島・瀬戸内町の集落での聞き取り調査、
節子(セッコ)に行ってきました。
シマグチでの呼び方は、スィッコ。
山深い山郷(やまぐん)エリアですが、
となりの網野子、嘉徳とはまた少しシマの趣が異なっていて、
海の恵みも存分に受けている半農半漁の集落。
節子と言えば、
シマ唄「一切朝花(ちゅっきゃりあさばな)」などに出てくる
節子の富(トミ)という女性。

▲節子の沖の真ん中には、「二又岩」(フタマタイワ)が立神として、集落を見守る。
トミという女性は、
1863(文久3)年、明治が始まる少し前に、
節子の豊かな農家に生まれました。
とにかく美人で、
名瀬に行けば見とれた店員たちがそろばんを間違うほど。
料理や縫い物も上手で、機織りの腕前も抜群。
また七色の美しい歌声を持ち、
三味線も弾けば、踊りもうまい。
鉄砲片手に馬に乗って
イノシシ狩りを楽しみ、
大工もするという男勝りの面もあったとか。
そんな華やかで自由奔放な生き方をしていた節子のトミは、
恋多き女性で、その時代の男性たちの手には負えなかったかもしれません。
さまよったあげく、最後には2つ隣の勝浦集落の人と結婚し、
昭和8年、69歳でその人生を終えました。
カッコイイ女性だったんでしょうね。
その時代に型にはまらず颯爽と生きた節子のトミさんに
できることなら、お目ににかかってみたいです。
そんなトミの生まれ故郷が、節子。

節子集落は、平成25年11月末現在の資料によると、
人口132人、79世帯。
今回は、
区長の盛 茂喜(モリ・シゲキ)さんにお願いし、
4名のみなさんに集まっていただき、
いろいろと話をうかがいました。
写真左手前より時計回りに、
Mさん (男性) 大正7年生まれ 満95歳
Mさん (男性)大正15年生まれ 満87歳
Nさん (女性)大正15年生まれ 満87歳
Fさん (男性) 昭和2年生まれ 満86歳
そして、一番右が盛 区長さんです。

教えていただいたのは、
・集落の小字、畑の名前、川、岬、瀬
・集落の聖域や信仰の話
・昔の生活の様子、信仰、伝説、津波の話
・漁業、古仁屋との行き来の話
などなど。
節子は、琉球との交流が盛んで、
マーラン船も頻繁に行き来していたそう。
「節子の始まりは、
琉球から来た人たちが先祖だと言われている。
身分の高いノロが来ていて、
ノロの祭りも盛んにやっていたらしい」。
神話も多く残るシマです。
*
節子集落の中には、小字が38もあります。
小字の中には、
さらにまた「ワーキャハテヘ(自分たちの畑)」の名前があるとか。
みなさんが小さな頃は段々畑がいっぱいで、
ちょっとでも植えられるところがあれば開墾し、
芋を植えて食糧を確保していた時代。
畑は大事な財産です。
小字や畑の名前はシマコトバそのままで、
文字になっていない名前もたくさん。
地形にあった名前がついているそう。
「字図には載っていない名前は、文化」との言葉は、
おっしゃるとおりです。
*
また、畑とともに、漁業も盛んだった節子。
追い込み漁の基地として、
区長さんの記憶によれば、昭和30年代のはじめぐらいまでは
冬になると、浜にずらっと網を干す風景が見られていたそう。
沖縄からも冬になると追い込み漁に来ていました。
大正15年生まれのMさんから、興味深いお話を聞きました。
イショシャ(漁師)で
ソーラ(サワラ)突きや追い込み漁などをし、
イノシシ狩りもしていたMさん。

▲右が、イショシャだったMさん(大正15年生まれ)。現在はタンカンやバナナ栽培など畑仕事が楽しみだとか。
魚群探知機がなかった昔は、
船から「アティ」と呼ばれる目印・目当てを利用して漁をしていたそう。
天気のいい時には「ヤマアティ」と言って、
遠い山々を目印として、
その頂きや谷などを結んだ線上の漁場を目指す。
「ヤマアティ」は、
住用の市崎や和瀬トンネルの上、与路島の山まで目印に。
また、山が霧がかかって見えない時は、
岬や瀬、岩などを「ジアティ」として漁をしていました。
Mさんは、
瀬戸内町の皆津崎から、
奄美市住用の市崎までの間の
岬・瀬・岩などの名前を全部知っているとのこと。
Mさんの話は盛りだくさんなので、
後日あらためて伺い聞き取り調査しました。
ソーラ突きやアティの話など、
こちらも後日別にご紹介する予定です。
*
いろいろとお話をうかがった後は、
集落の中も確認して回ります。
新しく立派な節子公民館。
目の前はミャー(広場)と土俵があり、
ここで十五夜豊年祭などを行います。

慰霊之碑。
公民館のななめ向かいにあり、
かつてはこちらに「ユレバ」と呼ばれる公民館的なものがありました。

公民館向かいにある共同墓地。もう1ヶ所、簡易郵便局前にも共同墓地があり。

共同墓地横のちょっとかわいらしいバス停。
建物は消防ポンプ格納庫。
かつてここに骨壷を捨てていたので、骨がいっぱい出てきたとか。

すべて珊瑚石でできた珍しいお墓。

お墓の古い形である、骨壷を埋めているものも。
上に置いていたと思われる珊瑚石が横に落ちていました。

公民館前の共同墓地と消防ポンプ格納庫横の通りを境界にし、
集落は、東の「ナハブレ・ナハブラハレ」、西の「ミナトブレ」に分かれています。

廃校になってしまった節子小中学校。
創立1886(明治19)年で、
昭和61年には創立百周年を迎えていました。
右手の山が「テラヤマ」と呼ばれるカミヤマ。

節子小中学校には鉄筋コンクリートの旧奉安殿が。
御真影と教育勅語を奉安していました。
国指定登録有形文化財。

学校の裏手と住宅の間にある細い道は
神社やテラヤマとつながっているので「カミミチ」かもしれないと区長さん。

テラヤマの麓、学校の裏手にある厳島神社。
清水集落の厳島神社からの分神と伝えられています。
このテラヤマの鬱蒼とした森の中に、
「サスカイシ」と呼ばれる畳7畳ほどの大きさの岩があり、
ここでノロ神が神祭りの時に神舞いをするなど斎場として利用していました。

神社の横側にある旧鳥居。
学校裏手のカミミチと思われる道につながっています。

神社の祭壇。向かって左にイビガナシ、
右にはマリア観音と思われるものが。

大字「タタ(太田)」。
指差す方向には、かつて「タータゴ」と呼ばれる水汲み場がありました。

昭和2年の天皇行幸記念でコンクリートのタンクを作って水を貯めていましたが、
その後の基盤整備事業の時に壊してしまい、
今は跡形もないそう。
タータゴの水を使うと
キュラムン(美人)になるとの言い伝えがあったそう。
使ってみたいですね!
*
節子の十五夜豊年祭には、
出し物として、車舟が登場します。
宝船と呼ばれ、
唄者、三味線、太鼓の奏者なども乗り込み、
船長が口上を述べたり。

かつては、東と西から二艘が出て競争していたそうですが、
平成25年は一艘のみ、東の「あがれ丸」が登場。
ちなみに西の宝船は「豊西丸」です。
*
節子橋から西方面一帯の山は「トラチ」。
尾根には、シマの人が飛行場を誘致しようとしたほどの平地「トラチナガネ」があります。

節子橋の節子側から山を見る。正面あたりが「打野(ウツノ)」、
向かって左あたりが「波野(ハーノ)」。

網野子側にある岬「イチヌハナ」より見る節子集落。

シマを離れた人がこの景色を見て、
「やっとシマに戻ってきた~」と思う場所と区長さん。
誰にでも、そんな風景がありますよね。
河口付近はミニャトと呼ばれ、
船着場がありました。
一番奥の岬が「マサキ(真崎)」、
次の岬が「トウスガク」、
その次の岬が「イチヌハナ」、
ちょっと見える浜が「コアンキャ」、
突き出た瀬が「クルシィ」、
一番手前の浜が「フアンキャ」。

*
節子の集落を歩いていて気づくのが、
T字路に置かれた魔除け石、
「セッカントウ・イシガントウ」の多さ。
区長さんは、カミイシと呼んでいました。
その数は奄美大島の集落の中でも
最多ではないかと言われています。
その全部を探しながら、
集落内を巡るのもきっと楽しいはず。
すべてのカミイシを記録できているでしょうか!?
他にもまだご存知の場合はぜひ教えてください。






このカミイシがある場所は、Y字路。
道が入り組んでいます。
そのためケンムンや、
夕方には耳のない豚の妖怪などが出没しては迷い、
このあたりをぐるぐる回っているといわれています。

耳のない豚の妖怪は、股の間を通って魂を抜くため、
区長さんが子供の頃は、
足を交差して歩いていたとか。
みなさん、節子に行ったら
このY字路付近は要注意(!?)です。



節子には、舟の櫂を一度漕いだだけで、
浜から沖の二又岩に着いたといわれる
豪傑の漁師「フーヨガナシ」の伝説があります。
フーヨガナシが亡くなった後、
島の人達は、海の神様として崇めるようになり、
とくにヤシ(キビナゴ)がいっぱい獲れた時は、
写真左側にある平石にお供えして拝んでいたといいます。

▲左がお供え物をした「フーヨガナシの平石」。右は「力石」。
昔は、海軍記念日の5月27日に舟漕ぎを必ずしていて、
集落の東と西で競争をしていました。
そのときも、海の神様であるフーヨガナシを拝みに行っていたとか。
いつも西が勝っていたのは、
このフーヨガナシの平石が集落の西側にあるからだと言われていたそうです。
また右の力石は、丸石とも言われ、
天から落ちてきた石として、
若者たちが力自慢をするために持ち上げていました。
*
節子の沖合にある二又岩は、
集落のシンボルであり、守り神。
シマグチでは、タマタディル。
沖を流れていくこの岩をキュラユキダリという美人神が、
白羽扇で招いてそこに止めたとの言い伝えがあります。

二又岩や、それにまつわる豪傑フーヨガナシの伝説、
豊年祭の出し物・宝船からも、
海とのつながりが深いことが分かる節子集落。
シマの人々は、それを誇りに思い、
大切になさっています。
現在でも、夏の「みなと祭り」の舟漕ぎ競争では、
節子集落のチーム「節子二又会」は強くて、
よく上位入賞していますよね。
瀬戸内町内の同じエリアでも
ひとつ山を越えてシマが違うと、
文化や風土が違うのが
はっきりと分かってとても興味深い調査となりました。
盛区長をはじめ、ご協力いただいた4名のみなさま、
ありがとうございました。

調査日 : 2013年11月19日(火) 晴
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 節子 (鹿児島県大島郡瀬戸内町節子)
<参考文献>
・「わぁきゃ島 スィッコ」
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
奄美.asia 調査員 / Y.K
節子(セッコ)に行ってきました。
シマグチでの呼び方は、スィッコ。
山深い山郷(やまぐん)エリアですが、
となりの網野子、嘉徳とはまた少しシマの趣が異なっていて、
海の恵みも存分に受けている半農半漁の集落。
節子と言えば、
シマ唄「一切朝花(ちゅっきゃりあさばな)」などに出てくる
節子の富(トミ)という女性。

▲節子の沖の真ん中には、「二又岩」(フタマタイワ)が立神として、集落を見守る。
トミという女性は、
1863(文久3)年、明治が始まる少し前に、
節子の豊かな農家に生まれました。
とにかく美人で、
名瀬に行けば見とれた店員たちがそろばんを間違うほど。
料理や縫い物も上手で、機織りの腕前も抜群。
また七色の美しい歌声を持ち、
三味線も弾けば、踊りもうまい。
鉄砲片手に馬に乗って
イノシシ狩りを楽しみ、
大工もするという男勝りの面もあったとか。
そんな華やかで自由奔放な生き方をしていた節子のトミは、
恋多き女性で、その時代の男性たちの手には負えなかったかもしれません。
さまよったあげく、最後には2つ隣の勝浦集落の人と結婚し、
昭和8年、69歳でその人生を終えました。
カッコイイ女性だったんでしょうね。
その時代に型にはまらず颯爽と生きた節子のトミさんに
できることなら、お目ににかかってみたいです。
そんなトミの生まれ故郷が、節子。

節子集落は、平成25年11月末現在の資料によると、
人口132人、79世帯。
今回は、
区長の盛 茂喜(モリ・シゲキ)さんにお願いし、
4名のみなさんに集まっていただき、
いろいろと話をうかがいました。
写真左手前より時計回りに、
Mさん (男性) 大正7年生まれ 満95歳
Mさん (男性)大正15年生まれ 満87歳
Nさん (女性)大正15年生まれ 満87歳
Fさん (男性) 昭和2年生まれ 満86歳
そして、一番右が盛 区長さんです。

教えていただいたのは、
・集落の小字、畑の名前、川、岬、瀬
・集落の聖域や信仰の話
・昔の生活の様子、信仰、伝説、津波の話
・漁業、古仁屋との行き来の話
などなど。
節子は、琉球との交流が盛んで、
マーラン船も頻繁に行き来していたそう。
「節子の始まりは、
琉球から来た人たちが先祖だと言われている。
身分の高いノロが来ていて、
ノロの祭りも盛んにやっていたらしい」。
神話も多く残るシマです。
*
節子集落の中には、小字が38もあります。
小字の中には、
さらにまた「ワーキャハテヘ(自分たちの畑)」の名前があるとか。
みなさんが小さな頃は段々畑がいっぱいで、
ちょっとでも植えられるところがあれば開墾し、
芋を植えて食糧を確保していた時代。
畑は大事な財産です。
小字や畑の名前はシマコトバそのままで、
文字になっていない名前もたくさん。
地形にあった名前がついているそう。
「字図には載っていない名前は、文化」との言葉は、
おっしゃるとおりです。
*
また、畑とともに、漁業も盛んだった節子。
追い込み漁の基地として、
区長さんの記憶によれば、昭和30年代のはじめぐらいまでは
冬になると、浜にずらっと網を干す風景が見られていたそう。
沖縄からも冬になると追い込み漁に来ていました。
大正15年生まれのMさんから、興味深いお話を聞きました。
イショシャ(漁師)で
ソーラ(サワラ)突きや追い込み漁などをし、
イノシシ狩りもしていたMさん。
▲右が、イショシャだったMさん(大正15年生まれ)。現在はタンカンやバナナ栽培など畑仕事が楽しみだとか。
魚群探知機がなかった昔は、
船から「アティ」と呼ばれる目印・目当てを利用して漁をしていたそう。
天気のいい時には「ヤマアティ」と言って、
遠い山々を目印として、
その頂きや谷などを結んだ線上の漁場を目指す。
「ヤマアティ」は、
住用の市崎や和瀬トンネルの上、与路島の山まで目印に。
また、山が霧がかかって見えない時は、
岬や瀬、岩などを「ジアティ」として漁をしていました。
Mさんは、
瀬戸内町の皆津崎から、
奄美市住用の市崎までの間の
岬・瀬・岩などの名前を全部知っているとのこと。
Mさんの話は盛りだくさんなので、
後日あらためて伺い聞き取り調査しました。
ソーラ突きやアティの話など、
こちらも後日別にご紹介する予定です。
*
いろいろとお話をうかがった後は、
集落の中も確認して回ります。
新しく立派な節子公民館。
目の前はミャー(広場)と土俵があり、
ここで十五夜豊年祭などを行います。

慰霊之碑。
公民館のななめ向かいにあり、
かつてはこちらに「ユレバ」と呼ばれる公民館的なものがありました。

公民館向かいにある共同墓地。もう1ヶ所、簡易郵便局前にも共同墓地があり。

共同墓地横のちょっとかわいらしいバス停。
建物は消防ポンプ格納庫。
かつてここに骨壷を捨てていたので、骨がいっぱい出てきたとか。

すべて珊瑚石でできた珍しいお墓。
お墓の古い形である、骨壷を埋めているものも。
上に置いていたと思われる珊瑚石が横に落ちていました。

公民館前の共同墓地と消防ポンプ格納庫横の通りを境界にし、
集落は、東の「ナハブレ・ナハブラハレ」、西の「ミナトブレ」に分かれています。

廃校になってしまった節子小中学校。
創立1886(明治19)年で、
昭和61年には創立百周年を迎えていました。
右手の山が「テラヤマ」と呼ばれるカミヤマ。

節子小中学校には鉄筋コンクリートの旧奉安殿が。
御真影と教育勅語を奉安していました。
国指定登録有形文化財。
学校の裏手と住宅の間にある細い道は
神社やテラヤマとつながっているので「カミミチ」かもしれないと区長さん。
テラヤマの麓、学校の裏手にある厳島神社。
清水集落の厳島神社からの分神と伝えられています。
このテラヤマの鬱蒼とした森の中に、
「サスカイシ」と呼ばれる畳7畳ほどの大きさの岩があり、
ここでノロ神が神祭りの時に神舞いをするなど斎場として利用していました。
神社の横側にある旧鳥居。
学校裏手のカミミチと思われる道につながっています。

神社の祭壇。向かって左にイビガナシ、
右にはマリア観音と思われるものが。

大字「タタ(太田)」。
指差す方向には、かつて「タータゴ」と呼ばれる水汲み場がありました。

昭和2年の天皇行幸記念でコンクリートのタンクを作って水を貯めていましたが、
その後の基盤整備事業の時に壊してしまい、
今は跡形もないそう。
タータゴの水を使うと
キュラムン(美人)になるとの言い伝えがあったそう。
使ってみたいですね!
*
節子の十五夜豊年祭には、
出し物として、車舟が登場します。
宝船と呼ばれ、
唄者、三味線、太鼓の奏者なども乗り込み、
船長が口上を述べたり。

かつては、東と西から二艘が出て競争していたそうですが、
平成25年は一艘のみ、東の「あがれ丸」が登場。
ちなみに西の宝船は「豊西丸」です。
*
節子橋から西方面一帯の山は「トラチ」。
尾根には、シマの人が飛行場を誘致しようとしたほどの平地「トラチナガネ」があります。

節子橋の節子側から山を見る。正面あたりが「打野(ウツノ)」、
向かって左あたりが「波野(ハーノ)」。

網野子側にある岬「イチヌハナ」より見る節子集落。

シマを離れた人がこの景色を見て、
「やっとシマに戻ってきた~」と思う場所と区長さん。
誰にでも、そんな風景がありますよね。
河口付近はミニャトと呼ばれ、
船着場がありました。
一番奥の岬が「マサキ(真崎)」、
次の岬が「トウスガク」、
その次の岬が「イチヌハナ」、
ちょっと見える浜が「コアンキャ」、
突き出た瀬が「クルシィ」、
一番手前の浜が「フアンキャ」。

*
節子の集落を歩いていて気づくのが、
T字路に置かれた魔除け石、
「セッカントウ・イシガントウ」の多さ。
区長さんは、カミイシと呼んでいました。
その数は奄美大島の集落の中でも
最多ではないかと言われています。
その全部を探しながら、
集落内を巡るのもきっと楽しいはず。
すべてのカミイシを記録できているでしょうか!?
他にもまだご存知の場合はぜひ教えてください。




このカミイシがある場所は、Y字路。
道が入り組んでいます。
そのためケンムンや、
夕方には耳のない豚の妖怪などが出没しては迷い、
このあたりをぐるぐる回っているといわれています。

耳のない豚の妖怪は、股の間を通って魂を抜くため、
区長さんが子供の頃は、
足を交差して歩いていたとか。
みなさん、節子に行ったら
このY字路付近は要注意(!?)です。


節子には、舟の櫂を一度漕いだだけで、
浜から沖の二又岩に着いたといわれる
豪傑の漁師「フーヨガナシ」の伝説があります。
フーヨガナシが亡くなった後、
島の人達は、海の神様として崇めるようになり、
とくにヤシ(キビナゴ)がいっぱい獲れた時は、
写真左側にある平石にお供えして拝んでいたといいます。

▲左がお供え物をした「フーヨガナシの平石」。右は「力石」。
昔は、海軍記念日の5月27日に舟漕ぎを必ずしていて、
集落の東と西で競争をしていました。
そのときも、海の神様であるフーヨガナシを拝みに行っていたとか。
いつも西が勝っていたのは、
このフーヨガナシの平石が集落の西側にあるからだと言われていたそうです。
また右の力石は、丸石とも言われ、
天から落ちてきた石として、
若者たちが力自慢をするために持ち上げていました。
*
節子の沖合にある二又岩は、
集落のシンボルであり、守り神。
シマグチでは、タマタディル。
沖を流れていくこの岩をキュラユキダリという美人神が、
白羽扇で招いてそこに止めたとの言い伝えがあります。

二又岩や、それにまつわる豪傑フーヨガナシの伝説、
豊年祭の出し物・宝船からも、
海とのつながりが深いことが分かる節子集落。
シマの人々は、それを誇りに思い、
大切になさっています。
現在でも、夏の「みなと祭り」の舟漕ぎ競争では、
節子集落のチーム「節子二又会」は強くて、
よく上位入賞していますよね。
瀬戸内町内の同じエリアでも
ひとつ山を越えてシマが違うと、
文化や風土が違うのが
はっきりと分かってとても興味深い調査となりました。
盛区長をはじめ、ご協力いただいた4名のみなさま、
ありがとうございました。
調査日 : 2013年11月19日(火) 晴
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 節子 (鹿児島県大島郡瀬戸内町節子)
<参考文献>
・「わぁきゃ島 スィッコ」
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
奄美.asia 調査員 / Y.K
2013年12月27日
勝浦 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる調査、
勝浦(かちうら)に行ってきました。
シマグチでの呼び方では、「カッチュラ」。
勝浦は、
瀬戸内町で山郷(やまぐん)と呼ばれるエリアにあります。
名瀬方面から国道58号線で瀬戸内町へ来ると、
網野子峠をすぎて最初に出あう集落。
中心部・古仁屋の2つ手前にあります。
世帯数は、99世帯、人口170人
(平成25年11月末現在)。
製糖工場があり、
サトウキビ栽培や畜産も盛ん。
十五夜豊年祭だけでなく、
旧暦5月5日のハマオレでは舟漕ぎ競争、
旧正月には、敬老会をしたりと
旧暦の行事を大切にしている集落です。
*
今回、勝浦の話を教えてくださったのは、
昭和27年生まれの、
義 富弘(ヨシ トミヒロ)さん。
内地の船会社で、
機関士や運航士などに従事したのち帰島。
郷土史家として多数の執筆をなさっています。
著書に「奄美夜話」、
共著に「しまぬゆ 1」「奄美学」(すべて発行は『南方新社』)などが。
また、郷土誌「しまがたれ」を主宰。
昔話や島の物事を収集記録しています。
勝浦はもちろん、
瀬戸内町・奄美を通して歴史や文化に精通しているかたです。

▲勝浦の案内をしてくださった義 富弘さん
まずは、義さんのご自宅にうかがい、
集落の小字や、山や海、川、岩など
基本的なシマでの呼び方などをうかがいました。
国道58号線沿いに勝浦集落を見ると、
集落は一瞬で終わってしまうような気がしてましたが、
海岸から山の麓まで、奥に深い集落。
小字も非常に多い土地でした。
例えば、「仕明」(シアケ・シャーケ)という小字。
薩摩藩政時代、収穫量を増やすため
新たに「開墾地」として”仕明られた”ことに由来。
他にも小字は、
地形に由来するものなどもたくさん見られ、
小字と照らしあわせてみると、とても面白いです!
そのほか、
義さんはご自身の体験をふまえ、
勝浦にまつわる
さまざまなことを教えてくださり、
本当に興味深いお話ばかりでした。
* *
ご厚意で、義さんも集落のなかも一緒に回って、
案内してくださることに。
国道沿いにある「ミャー」(広場・宮)と呼ばれる場所。
写真の電柱前あたりには土俵、
この敷地内には、旧公民館もありました。

▲「ミャー」。以前は、こちらで十五夜豊年祭や八月踊り、相撲などが行われていた
平成22年に公民館は新築し、移転。
現在は、そちらで豊年祭などを行っています。
*
このミャーの一画にあるのが、
共同墓「モーヤ」。
もともとは江戸時代後期の災害で散乱した人骨を
住民総出で集め、
共同墓としてこの場所に祀ったと伝えられています。
かつての「モーヤ」は、
石積みとセメントで横1m、長さ約2.5m、高さ1mほどの作りで、
茅葺き屋根づくり。
栴檀(センダン)の木で囲まれていて、
入り口には鳥居もあったそう。
前面には小さな祠があり、
勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」の人骨も祀られていました。
この勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」と
隣の阿木名集落の豪傑「ナガスネ(長臑)」は、
お互い山に陣取り弓矢で対決したという伝承があります。
現在は、昭和41年に建立された慰霊碑があり、
こちらの中には人骨が。
この慰霊碑が建立されるまでは、
十五夜豊年祭のときに、
勝浦の守り神として「フーティブリ」を拝んで祭りごとをしていました。

▲勝浦の国道沿いに慰霊碑が立つ、共同墓「モーヤ」
またミャーの回りの墓地には、
鹿児島の坊津町秋目出身の「満尾平兵衛」の墓があり、
享保12年と刻まれています。
瀬戸内町のなかでも最も古いお墓なのでは?とのこと。

▲満尾平兵衛の墓
このお墓は、山川石でできており、
特に江戸時代には身分の高い人々の墓石として利用されていたもの。
鹿児島の山川港近くで産出される凝灰岩です。
*
ミャーから、
昔は放射状に「カミミチ」がありました。
そのいくつかは現存。
いくつかはつぶれてしまっています。
カミミチその1。
現在は、ナシ。

▲手の方向が海とミャーをつなぐカミミチの名残
カミミチその2。
ミャーから国道を越えて、山へ向かうカミミチ。

▲現在も人も車も通れるカミミチ
カミミチその3。
現在はナシ。

▲ミャーからモーヤの横を通っていたカミミチの名残
カミミチその4。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の間を通っていたカミミチの名残
カミミチその5。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の横を通っていたカミミチの名残
カミミチその6。
ここはミャーから離れていて、つながっていないカミミチ。

▲かぼちゃアンダアゲを売っている「宝月堂」近く
勝浦簡易郵便局前の道路を挟んで向かいの土地は、
かつての「ウドン」(御殿)。
昔の公民館的な場所でした。
集会場があったので、義さんの年代は「カイバ」とも呼び、
さらに年配の世代は「ウドン」と呼んでいるそう。

▲「ウドン」(御殿)の跡
義さんが小学校の頃までは、「ウドン」で八月踊りをして、
ミャーで十五夜豊年祭や相撲をしていました。
昭和30年代になると、道路の交通量が激しくなってきたので、
八月踊りもミャーでやるようになったとか。
*
T字路での魔除けとなる「石敢當」。

正面の生け垣は、「カタハガキ」と呼ばれるもの。
沖縄の「ヒンプン」と同じで、魔除けと目隠しの役割などを持っています。

▲カタハガキの右側を通って入るのはお客さん、左へ行くのは御用聞きなど炊事場へ行く人
水道のない時代、
勝浦の人たちの大事な飲み水汲み場だった「ソーツ」。

▲ソーツ山の麓にあり
義さんが小学校2年生、昭和35年ぐらまでは、
毎朝6時ごろにソーツで水汲みが日課。
ブリキのバケツで、
家の水瓶をいっぱいにしてから学校へ行っていたそうです。
今まで一度も枯れたことがなく、
現在も断水になった時など、集落の人たちは利用しています。

▲澄んでいるソーツの水
平成22年に新築された立派な公民館。
ソーラーパネル付き。

▲保育所としても利用されており、公民館の前には、土俵も
力強い「勝浦公民館」の文字は、
なんとタレントの”ぐっさん”こと山口智充さんによるもの。
ぐっさんの母親が勝浦のご出身という縁で、
瀬戸内町観光大使として、町をPRしてくださっています。

*
新しい公民館の前を流れる細い川は、
ガソリンスタンドそばの港橋まで「ユゴ」と呼ばれています。
この港橋の上流を「フーコウ(大川)」、
港橋より河口を「ミナト(湊)」。
このあたりは昔はすごく深く、
明治16年頃マーラン船が入ってきていました。
また義さんが中学生ぐらいまでは、マングローブも生えていたそう。

▲港橋近く、ユゴからフーコウに合流するあたり
小字の屋川には、かつて「ウッコウ」という川があって
その名残の水路には、とても香りのいい菖蒲が生えていました。

*
義さんは、島に戻って来てから、
「食えるものは全部食うぞ」と、なんでも試しているそう。
島の人の食の傾向として、
「シマの人は、山のゼンマイやワラビなど山の植物を不思議とあまり食べない。
同じシダ類でも、他の植物でも
根っこからデンプンが取れるものをよく食べていた。
デンプンが取れれば外国産でもスッと島に受け入れられる」とのこと。
デンプンを採っていた植物としては、
ソテツはもちろんのこと、
カラスウリ、ニギャユリ、
キャッサバ、アルロートなどなど。
デンプンは餅にしたり、
味噌汁にダンゴとして入れて食べたりしていたそう。

▲あるお宅の庭で発見した、月桃のような葉っぱのアルロート
こちらも飢饉の時の救荒食として
澱粉をとっていた「リュウビンタイ」。

この「クロツグ」からは繊維を取り、
薩摩藩に上納していたことも。

▲義さんは子供の頃、木刀代わりにして遊んでいたそう。
柔らかいので叩いても大丈夫だったからだとか
クロツグの繊維。シュロのような手触り

勝浦は、現在も製糖工場があり、
サトウキビ栽培も盛んでした。

▲里山製糖工場の昔の敷地あたり。水車がここにあった
集落奥深くの山の中「ウフ」に流れる川。

▲さらに200mぐらい奥に大きな滝壺「ウシゴモリ」があるとのこと
ここには防空壕がありますが、
木が倒れたり、草に覆われて中には入られませんでした。

ほかに、面白いものを見せていただきました。
義さんがソーツヤマで拾った薬莢。
「たぶんアメリカ軍のものだろう」。
アメリカ軍は本土空襲で残った弾を全部、高知山あたりでばらまいていったという話で、
いまもけっこう残っているのでは?とのこと。

「アバス瀬」と呼ばれる岩。
誰かがアバス(ハリセンボン)を釣ったためにこの名がついたのかな?と義さん。

集落西側、対岸に見える小さな浜は「カラマ」。
岬を越えると網野子集落

義さんが編集・発行している郷土誌『しまがたれ』は、
昔話や聞きがたり、芸能、文化など、
さまざまなことが載っています。
義さんのシマへの想いがあふれていて、
面白く、また勉強になる話がいっぱい。
『しまがたれ』は、1996年に創刊。
その時すでに義さんは、
「先人達が培って来た島の文化が
我々の世代で途切れようとしています。
今発掘して書き留め引き継いでおかなければ
奄美固有の文化が永遠に閉ざされてしまいます」。
と、書いていらっしゃいました。
また「生の言葉を送って下さい」と。
われわれもその気持ちを引き継ぎ、
実体験を教えていただける
集落の聞き取り調査に望んでいきたいと思います。

▲「ムェーデ」(前瀬)。集落の目の前に見える岩々
瀬戸内町から名瀬に行く時に、
いつも通り過ぎるだけになっていた勝浦集落。
ゆっくりと散策すると、
見どころがいっぱいの集落でした。
義さんのお話も本当に面白くて、
みんな日がとっぷりと暮れるまでご案内していただきましたが、
まだまだ聞き足りないくらいでした。
義さん、ご協力ありがとうございました!
調査日 : 2013年11月6日(水)
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 勝浦集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町勝浦 )
< 参考文献 >
・「勝浦公民館建設記念誌」
・「しまがたれ」 奄美瀬戸内しまがたれ同好会編
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町勝浦集落」資料
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 / Y.K
勝浦(かちうら)に行ってきました。
シマグチでの呼び方では、「カッチュラ」。
勝浦は、
瀬戸内町で山郷(やまぐん)と呼ばれるエリアにあります。
名瀬方面から国道58号線で瀬戸内町へ来ると、
網野子峠をすぎて最初に出あう集落。
中心部・古仁屋の2つ手前にあります。
世帯数は、99世帯、人口170人
(平成25年11月末現在)。
製糖工場があり、
サトウキビ栽培や畜産も盛ん。
十五夜豊年祭だけでなく、
旧暦5月5日のハマオレでは舟漕ぎ競争、
旧正月には、敬老会をしたりと
旧暦の行事を大切にしている集落です。
*
今回、勝浦の話を教えてくださったのは、
昭和27年生まれの、
義 富弘(ヨシ トミヒロ)さん。
内地の船会社で、
機関士や運航士などに従事したのち帰島。
郷土史家として多数の執筆をなさっています。
著書に「奄美夜話」、
共著に「しまぬゆ 1」「奄美学」(すべて発行は『南方新社』)などが。
また、郷土誌「しまがたれ」を主宰。
昔話や島の物事を収集記録しています。
勝浦はもちろん、
瀬戸内町・奄美を通して歴史や文化に精通しているかたです。

▲勝浦の案内をしてくださった義 富弘さん
まずは、義さんのご自宅にうかがい、
集落の小字や、山や海、川、岩など
基本的なシマでの呼び方などをうかがいました。
国道58号線沿いに勝浦集落を見ると、
集落は一瞬で終わってしまうような気がしてましたが、
海岸から山の麓まで、奥に深い集落。
小字も非常に多い土地でした。
例えば、「仕明」(シアケ・シャーケ)という小字。
薩摩藩政時代、収穫量を増やすため
新たに「開墾地」として”仕明られた”ことに由来。
他にも小字は、
地形に由来するものなどもたくさん見られ、
小字と照らしあわせてみると、とても面白いです!
そのほか、
義さんはご自身の体験をふまえ、
勝浦にまつわる
さまざまなことを教えてくださり、
本当に興味深いお話ばかりでした。
* *
ご厚意で、義さんも集落のなかも一緒に回って、
案内してくださることに。
国道沿いにある「ミャー」(広場・宮)と呼ばれる場所。
写真の電柱前あたりには土俵、
この敷地内には、旧公民館もありました。

▲「ミャー」。以前は、こちらで十五夜豊年祭や八月踊り、相撲などが行われていた
平成22年に公民館は新築し、移転。
現在は、そちらで豊年祭などを行っています。
*
このミャーの一画にあるのが、
共同墓「モーヤ」。
もともとは江戸時代後期の災害で散乱した人骨を
住民総出で集め、
共同墓としてこの場所に祀ったと伝えられています。
かつての「モーヤ」は、
石積みとセメントで横1m、長さ約2.5m、高さ1mほどの作りで、
茅葺き屋根づくり。
栴檀(センダン)の木で囲まれていて、
入り口には鳥居もあったそう。
前面には小さな祠があり、
勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」の人骨も祀られていました。
この勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」と
隣の阿木名集落の豪傑「ナガスネ(長臑)」は、
お互い山に陣取り弓矢で対決したという伝承があります。
現在は、昭和41年に建立された慰霊碑があり、
こちらの中には人骨が。
この慰霊碑が建立されるまでは、
十五夜豊年祭のときに、
勝浦の守り神として「フーティブリ」を拝んで祭りごとをしていました。
▲勝浦の国道沿いに慰霊碑が立つ、共同墓「モーヤ」
またミャーの回りの墓地には、
鹿児島の坊津町秋目出身の「満尾平兵衛」の墓があり、
享保12年と刻まれています。
瀬戸内町のなかでも最も古いお墓なのでは?とのこと。

▲満尾平兵衛の墓
このお墓は、山川石でできており、
特に江戸時代には身分の高い人々の墓石として利用されていたもの。
鹿児島の山川港近くで産出される凝灰岩です。
*
ミャーから、
昔は放射状に「カミミチ」がありました。
そのいくつかは現存。
いくつかはつぶれてしまっています。
カミミチその1。
現在は、ナシ。

▲手の方向が海とミャーをつなぐカミミチの名残
カミミチその2。
ミャーから国道を越えて、山へ向かうカミミチ。

▲現在も人も車も通れるカミミチ
カミミチその3。
現在はナシ。

▲ミャーからモーヤの横を通っていたカミミチの名残
カミミチその4。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の間を通っていたカミミチの名残
カミミチその5。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の横を通っていたカミミチの名残
カミミチその6。
ここはミャーから離れていて、つながっていないカミミチ。

▲かぼちゃアンダアゲを売っている「宝月堂」近く
勝浦簡易郵便局前の道路を挟んで向かいの土地は、
かつての「ウドン」(御殿)。
昔の公民館的な場所でした。
集会場があったので、義さんの年代は「カイバ」とも呼び、
さらに年配の世代は「ウドン」と呼んでいるそう。

▲「ウドン」(御殿)の跡
義さんが小学校の頃までは、「ウドン」で八月踊りをして、
ミャーで十五夜豊年祭や相撲をしていました。
昭和30年代になると、道路の交通量が激しくなってきたので、
八月踊りもミャーでやるようになったとか。
*
T字路での魔除けとなる「石敢當」。

正面の生け垣は、「カタハガキ」と呼ばれるもの。
沖縄の「ヒンプン」と同じで、魔除けと目隠しの役割などを持っています。

▲カタハガキの右側を通って入るのはお客さん、左へ行くのは御用聞きなど炊事場へ行く人
水道のない時代、
勝浦の人たちの大事な飲み水汲み場だった「ソーツ」。
▲ソーツ山の麓にあり
義さんが小学校2年生、昭和35年ぐらまでは、
毎朝6時ごろにソーツで水汲みが日課。
ブリキのバケツで、
家の水瓶をいっぱいにしてから学校へ行っていたそうです。
今まで一度も枯れたことがなく、
現在も断水になった時など、集落の人たちは利用しています。

▲澄んでいるソーツの水
平成22年に新築された立派な公民館。
ソーラーパネル付き。

▲保育所としても利用されており、公民館の前には、土俵も
力強い「勝浦公民館」の文字は、
なんとタレントの”ぐっさん”こと山口智充さんによるもの。
ぐっさんの母親が勝浦のご出身という縁で、
瀬戸内町観光大使として、町をPRしてくださっています。

*
新しい公民館の前を流れる細い川は、
ガソリンスタンドそばの港橋まで「ユゴ」と呼ばれています。
この港橋の上流を「フーコウ(大川)」、
港橋より河口を「ミナト(湊)」。
このあたりは昔はすごく深く、
明治16年頃マーラン船が入ってきていました。
また義さんが中学生ぐらいまでは、マングローブも生えていたそう。

▲港橋近く、ユゴからフーコウに合流するあたり
小字の屋川には、かつて「ウッコウ」という川があって
その名残の水路には、とても香りのいい菖蒲が生えていました。

*
義さんは、島に戻って来てから、
「食えるものは全部食うぞ」と、なんでも試しているそう。
島の人の食の傾向として、
「シマの人は、山のゼンマイやワラビなど山の植物を不思議とあまり食べない。
同じシダ類でも、他の植物でも
根っこからデンプンが取れるものをよく食べていた。
デンプンが取れれば外国産でもスッと島に受け入れられる」とのこと。
デンプンを採っていた植物としては、
ソテツはもちろんのこと、
カラスウリ、ニギャユリ、
キャッサバ、アルロートなどなど。
デンプンは餅にしたり、
味噌汁にダンゴとして入れて食べたりしていたそう。

▲あるお宅の庭で発見した、月桃のような葉っぱのアルロート
こちらも飢饉の時の救荒食として
澱粉をとっていた「リュウビンタイ」。

この「クロツグ」からは繊維を取り、
薩摩藩に上納していたことも。

▲義さんは子供の頃、木刀代わりにして遊んでいたそう。
柔らかいので叩いても大丈夫だったからだとか
クロツグの繊維。シュロのような手触り

勝浦は、現在も製糖工場があり、
サトウキビ栽培も盛んでした。

▲里山製糖工場の昔の敷地あたり。水車がここにあった
集落奥深くの山の中「ウフ」に流れる川。

▲さらに200mぐらい奥に大きな滝壺「ウシゴモリ」があるとのこと
ここには防空壕がありますが、
木が倒れたり、草に覆われて中には入られませんでした。

ほかに、面白いものを見せていただきました。
義さんがソーツヤマで拾った薬莢。
「たぶんアメリカ軍のものだろう」。
アメリカ軍は本土空襲で残った弾を全部、高知山あたりでばらまいていったという話で、
いまもけっこう残っているのでは?とのこと。
「アバス瀬」と呼ばれる岩。
誰かがアバス(ハリセンボン)を釣ったためにこの名がついたのかな?と義さん。
集落西側、対岸に見える小さな浜は「カラマ」。
岬を越えると網野子集落

義さんが編集・発行している郷土誌『しまがたれ』は、
昔話や聞きがたり、芸能、文化など、
さまざまなことが載っています。
義さんのシマへの想いがあふれていて、
面白く、また勉強になる話がいっぱい。
『しまがたれ』は、1996年に創刊。
その時すでに義さんは、
「先人達が培って来た島の文化が
我々の世代で途切れようとしています。
今発掘して書き留め引き継いでおかなければ
奄美固有の文化が永遠に閉ざされてしまいます」。
と、書いていらっしゃいました。
また「生の言葉を送って下さい」と。
われわれもその気持ちを引き継ぎ、
実体験を教えていただける
集落の聞き取り調査に望んでいきたいと思います。

▲「ムェーデ」(前瀬)。集落の目の前に見える岩々
瀬戸内町から名瀬に行く時に、
いつも通り過ぎるだけになっていた勝浦集落。
ゆっくりと散策すると、
見どころがいっぱいの集落でした。
義さんのお話も本当に面白くて、
みんな日がとっぷりと暮れるまでご案内していただきましたが、
まだまだ聞き足りないくらいでした。
義さん、ご協力ありがとうございました!
調査日 : 2013年11月6日(水)
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 勝浦集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町勝浦 )
< 参考文献 >
・「勝浦公民館建設記念誌」
・「しまがたれ」 奄美瀬戸内しまがたれ同好会編
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町勝浦集落」資料
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 / Y.K
2013年12月18日
網野子 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐって、
昔話などの聞き取り調査。
10月22日(火)に、
網野子(あみのこ)集落へ行ってきました。
シマグチでの呼びかたは、「アンミョホ」。
町外のかたでも、
名瀬方面から国道58号線を通って瀬戸内町へ来る時に目にする
「網野子峠」で、その名をご存知のかたも多いかと思います。
集落は、網野子峠の麓にあり、
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる山深いエリアの1つ。
人口91人、世帯数59戸(平成25年11月末現在)です。

▲現在工事中の「網野子トンネル」入口が集落の畑より望める。
この写真の畑のあたりは「祖(そ)」と呼ばれるところ。
網野子トンネル入口の上あたりの山が「ウチスギ」、
右手の高い山は「ノーヤマ」。
* *
十五夜豊年祭で披露される伝統芸能「アンドンデー」は、
町指定無形民俗文化財。
女性のみで踊られます。
かつて網野子に住んでいた役人の家で、
娘(玉女加那)が生まれたとき、
数人の使用人がアンドン(行灯)を持って即興的に踊ったのが始まり。
またその娘の病気が治った快気祝いに踊られたとも伝わっています。
近年踊られていないようですが、
豊年祭で披露されるもう一つの踊りが
「ムンジュル」。
麦わらで編んだ畑仕事に使うムンジュル笠をかぶります。
こちらも女性だけで踊りますが、
女性が男性の着物姿に扮装(!)して、
男女の組に分かれます。
沖縄に、ムンジュル笠やムンジュル節があり、
琉球とのつながりもかいま見える芸能。
区長さんによると、
「来年あたり『ムンジュル』を復活させよう」と考えているそう。
楽しみですね。
* *
そんな網野子集落で、
まずはじめに聞き取り調査にうかがったのは、
集落の女性陣たちが集まっていた会合の場でした。
ワイワイとにぎやかに行われていた、
その名も「ゆらおう会」。

集落には、一人住まいの老人の方も多いため
みんなで集まる場を設け、
おしゃべりなどして楽しい時間を過ごしながら
認知症の防止や健康状態の把握をしようと、
始まったのが毎月10日の「お達者会」。
なんとそれだけでは物足りなくなって(笑)、
毎月20日には「ゆらおう会」も始まり、
月2回の定期的な集まりが開催されています。
今でいう「網野子女子会」ですね。
われわれがお邪魔した「ゆらおう会」では、
みんなでお弁当を食べた後に、シマ唄、新民謡・演歌などを歌ったり、踊ったり。
森区長さんの「みなさんこの日を楽しみに待っている」という言葉が
良く分かる盛り上がりでした。
* *
集まったみなさんの中でお話をうかがったのは、
Tさん・昭和5年生まれ、
Fさん・昭和9年生まれ、
Kさん・昭和7年生まれ、
の3名。
教えていただいたのは、
・集落の小字や畑の名前
・川の方言名
・食べ物の話
・戦争時代の話
・旧暦行事の過ごしかた
など。

▲聞き取り調査に協力してくださった、手前からTさん、Fさん、Kさん
印象的なお話としては、
◯現在でも国道58号線が通る網野子峠は、
高低差があり急カーブが続く難所だが、、
その昔、人々が歩いて行き来していた時代には峠に休憩所の「チャヤ」があった。
◯網野子峠の近くに、「チャエン」と呼ばれるお茶畑を網野子青年団で管理。
その場で製茶などもして、
十五夜豊年祭の時にお茶として出していた。
◯網野子の人は、イショ(昼間に磯場でタコ・貝などを採取)には行くけど、
イザリ(冬の夜の潮干狩り)には行かない。
◯戦時中は、自分自分の家の庭に防空壕を掘ったりしていた。
集落全体としては網野子峠の下あたりに「ジンチ」と呼ばれる場所を作り、
そこに3日ほど疎開したことも。
小屋を作り、味噌ガメや食糧や着替えを持って行き、本当に難儀したそう。
当時小学生だったKさんのお宅は、家一軒を解体し、まるごと山のほうに移動。
当時移動代は150円。だが、移動した途端に終戦になったそう。
◯網野子の人の大好物「クイニャ」料理。
クイニャは海藻で、寒天のように固まるもの。
魚のアラでダシをとって、豆などの具を加え、クイニャを炊いて固めて食べる。
お祝いにもかかせない料理。
クイニャは昔はいっぱい網野子の海にあったのだが、
もうとれないので、作る人も全然いない。
などなど。
昭和ヒトケタ代のみなさん、
昔の、この山深い網野子集落での暮らしは「とにかく難儀ばかり」だったそう。
食生活も「今は、毎日がお正月のよう」との言葉も身にしみました。

▲昭和31年に撮影された網野子集落の全景写真を見て、話も弾む
* *
みなさんからお話をうかがった後は、
集落の中を実際に見て歩き、記録していきます。

▲網野子公民館。前の広場は「ミャー」と呼ばれ、土俵もある。
豊年祭・敬老会はここで行われる。目の前は海

▲公民館前のガジュマルの根元にあった2つの石。力石と見られるもの

▲この縦の通りを境界として、集落は右側が「アガレ(東)」、左側が「イリ(西)」。
集落は、通りごとにも5班に分かれていて
「通り会」と呼ばれています。
海から山方向にかけての縦の通りにごとに分かれていて、
その通りに門・玄関が面している家が同じ通り会に所属。
かつては、その通り会ごとに旧暦4月の行事「ハマオレ」を楽しんでいたそう。

▲集落内のブロック塀に書かれている、ちょっと気になるこの黄色い文字・・。
秘密の暗号?かと思いきや、消火栓からホースをのばすための印

▲旧公民館。現在も倉庫として使用。この手前には、塩炊き小屋があった

▲T字路にあったので、石敢當のようにも見える。集落のかたは排水口を止めただけなのでは?と

▲集落西側、勝浦方面へとつながる町道(通称「網野子道」)付近は、
「打畑(ウチバテヘ)」と呼ばれるところ

▲真ん中に見えるのが集落西側の小さな浜「ハルバマ」。
岬を越えると勝浦の浜「カラマ」で、奥に見える集落は勝浦集落

▲網野子の厳島神社は、清水の厳島神社からの分神。平成10年に改築

▲厳島神社境内にある戦没者慰霊碑。12名のかたの名前が刻まれている

▲厳島神社の祭壇。清潔に保たれ、榊や水、酒なども供えられており、
集落のかたが大事にしているのがよく分かる

▲祭壇の横に、イビガナシ。

▲厳島神社のそばにある、飲水汲み場の「ソツ」。
ほかにも「ソツノコ」「ソティミズ」と呼ぶかたも。
囲いの右部には「御行年記念」、左部は「昭和四年八月廿日」、
上部には桜が刻まれていた
* *
集落を歩いていくなかで、
大正15年生まれのTさん(男性)にもお話をうかがうことができました。
もともと古仁屋出身で、16歳の時に満州へ開拓団として行き、
その後、徳之島で終戦を迎えたTさん。
戦後は、一度奄美に戻った後、沖縄で仕事。
昭和28年の奄美群島本土復帰に伴い、
奄美大島に戻り、網野子に住み始めたそう。
網野子はとくに林業が盛んだったため、
Tさんも昭和40年代頃まで林業に従事。
そのため山の名前に詳しいかたでした。
Tさんが林業をしていた頃は、網野子の人も
山仕事をしてた人がほとんどだったそう。
終戦後しばらくは、空襲で焼け野原になった沖縄からの材木の引き合いが多く、
網野子の林業はその頃が全盛期。
古仁屋に製材所、
となりの勝浦集落に材木を買う人がいて、
山から運び出された木を、そのまま道で現金買いしてたことも。
昭和30年代になると、道を作るのに公共事業が始まって、
山仕事する人も減ったとのことでした。

▲網野子川の下流近くにあった墓地にて。土台がレンガになったお墓。
集落をはさんで対角線上の「打畑(ウチバテヘ)」にも墓地がある。

▲集落東側にある小さな浜は「小浜(クバマ)」。突端の岬は、「トグラ崎」。その上部は「トグラ山」

▲「クバマ」から裏手の「クビンジュラ」と呼ばれる場所に続く道。
クビンジュラはかつて貝が豊富にとれたいい場所で、網野子の人たちが行っていた

▲電柱のあたりが「百郡(モモグリ)」。このあたりで酒を作っていたそう

▲網野子大橋より少し上の部分は、上流「ウンコ」=上の川(コ)と呼ばれる場所

▲網野子大橋と網野子橋の間ぐらいが、中流「ナハンコ」=中の川(コ)

▲網野子橋の下部分は、水量も豊富。洗濯、野菜洗いなどなんでもしていた

▲網野子橋からだいぶ下流が、「シャンコ」=下の川(コ)
現在、全長4,243mにも及ぶ「網野子トンネル」は、
平成26年度の供用開始を目標に現在も整備中。
このトンネル、施工中のトンネルを除けば県内最長。
奄美大島最長の新和瀬トンネル(延長2,435m)よりも約1,800mも上回っています。
網野子トンネルが供用開始となれば、
その出入口となる網野子の様子や風景も変化していくかもしれません。
人口は100人切っていますが、
年間の旧暦行事も集落で資料としてまとめており、
網野子の伝統を絶やさないようにと伝えている集落。

▲集落正面の浜からは、勝浦、阿木名、伊須の集落も見えるが、
昔は他シマとの行き来や結婚は少なかったという
伝統芸能「アンドンデー」や「ムンジュル」、
そして毎月の「お達者会」「ゆらおう会」に象徴されるように、
網野子はとにかく女性が元気!
集落の中で出会うかたがたみなさんが、
われわれの聞き取り調査を温かく迎えていただきました。
今回、聞き取り調査にご協力いただいた
網野子集落のみなさま、
本当にありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 : 2013年10月22日(火)、31日(木)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 網野子集落 (鹿児島県大島郡瀬戸内町網野子)
奄美.asia / 調査員 Y.K
昔話などの聞き取り調査。
10月22日(火)に、
網野子(あみのこ)集落へ行ってきました。
シマグチでの呼びかたは、「アンミョホ」。
町外のかたでも、
名瀬方面から国道58号線を通って瀬戸内町へ来る時に目にする
「網野子峠」で、その名をご存知のかたも多いかと思います。
集落は、網野子峠の麓にあり、
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる山深いエリアの1つ。
人口91人、世帯数59戸(平成25年11月末現在)です。

▲現在工事中の「網野子トンネル」入口が集落の畑より望める。
この写真の畑のあたりは「祖(そ)」と呼ばれるところ。
網野子トンネル入口の上あたりの山が「ウチスギ」、
右手の高い山は「ノーヤマ」。
* *
十五夜豊年祭で披露される伝統芸能「アンドンデー」は、
町指定無形民俗文化財。
女性のみで踊られます。
かつて網野子に住んでいた役人の家で、
娘(玉女加那)が生まれたとき、
数人の使用人がアンドン(行灯)を持って即興的に踊ったのが始まり。
またその娘の病気が治った快気祝いに踊られたとも伝わっています。
近年踊られていないようですが、
豊年祭で披露されるもう一つの踊りが
「ムンジュル」。
麦わらで編んだ畑仕事に使うムンジュル笠をかぶります。
こちらも女性だけで踊りますが、
女性が男性の着物姿に扮装(!)して、
男女の組に分かれます。
沖縄に、ムンジュル笠やムンジュル節があり、
琉球とのつながりもかいま見える芸能。
区長さんによると、
「来年あたり『ムンジュル』を復活させよう」と考えているそう。
楽しみですね。
* *
そんな網野子集落で、
まずはじめに聞き取り調査にうかがったのは、
集落の女性陣たちが集まっていた会合の場でした。
ワイワイとにぎやかに行われていた、
その名も「ゆらおう会」。

集落には、一人住まいの老人の方も多いため
みんなで集まる場を設け、
おしゃべりなどして楽しい時間を過ごしながら
認知症の防止や健康状態の把握をしようと、
始まったのが毎月10日の「お達者会」。
なんとそれだけでは物足りなくなって(笑)、
毎月20日には「ゆらおう会」も始まり、
月2回の定期的な集まりが開催されています。
今でいう「網野子女子会」ですね。
われわれがお邪魔した「ゆらおう会」では、
みんなでお弁当を食べた後に、シマ唄、新民謡・演歌などを歌ったり、踊ったり。
森区長さんの「みなさんこの日を楽しみに待っている」という言葉が
良く分かる盛り上がりでした。
* *
集まったみなさんの中でお話をうかがったのは、
Tさん・昭和5年生まれ、
Fさん・昭和9年生まれ、
Kさん・昭和7年生まれ、
の3名。
教えていただいたのは、
・集落の小字や畑の名前
・川の方言名
・食べ物の話
・戦争時代の話
・旧暦行事の過ごしかた
など。

▲聞き取り調査に協力してくださった、手前からTさん、Fさん、Kさん
印象的なお話としては、
◯現在でも国道58号線が通る網野子峠は、
高低差があり急カーブが続く難所だが、、
その昔、人々が歩いて行き来していた時代には峠に休憩所の「チャヤ」があった。
◯網野子峠の近くに、「チャエン」と呼ばれるお茶畑を網野子青年団で管理。
その場で製茶などもして、
十五夜豊年祭の時にお茶として出していた。
◯網野子の人は、イショ(昼間に磯場でタコ・貝などを採取)には行くけど、
イザリ(冬の夜の潮干狩り)には行かない。
◯戦時中は、自分自分の家の庭に防空壕を掘ったりしていた。
集落全体としては網野子峠の下あたりに「ジンチ」と呼ばれる場所を作り、
そこに3日ほど疎開したことも。
小屋を作り、味噌ガメや食糧や着替えを持って行き、本当に難儀したそう。
当時小学生だったKさんのお宅は、家一軒を解体し、まるごと山のほうに移動。
当時移動代は150円。だが、移動した途端に終戦になったそう。
◯網野子の人の大好物「クイニャ」料理。
クイニャは海藻で、寒天のように固まるもの。
魚のアラでダシをとって、豆などの具を加え、クイニャを炊いて固めて食べる。
お祝いにもかかせない料理。
クイニャは昔はいっぱい網野子の海にあったのだが、
もうとれないので、作る人も全然いない。
などなど。
昭和ヒトケタ代のみなさん、
昔の、この山深い網野子集落での暮らしは「とにかく難儀ばかり」だったそう。
食生活も「今は、毎日がお正月のよう」との言葉も身にしみました。

▲昭和31年に撮影された網野子集落の全景写真を見て、話も弾む
* *
みなさんからお話をうかがった後は、
集落の中を実際に見て歩き、記録していきます。

▲網野子公民館。前の広場は「ミャー」と呼ばれ、土俵もある。
豊年祭・敬老会はここで行われる。目の前は海

▲公民館前のガジュマルの根元にあった2つの石。力石と見られるもの

▲この縦の通りを境界として、集落は右側が「アガレ(東)」、左側が「イリ(西)」。
集落は、通りごとにも5班に分かれていて
「通り会」と呼ばれています。
海から山方向にかけての縦の通りにごとに分かれていて、
その通りに門・玄関が面している家が同じ通り会に所属。
かつては、その通り会ごとに旧暦4月の行事「ハマオレ」を楽しんでいたそう。

▲集落内のブロック塀に書かれている、ちょっと気になるこの黄色い文字・・。
秘密の暗号?かと思いきや、消火栓からホースをのばすための印

▲旧公民館。現在も倉庫として使用。この手前には、塩炊き小屋があった

▲T字路にあったので、石敢當のようにも見える。集落のかたは排水口を止めただけなのでは?と

▲集落西側、勝浦方面へとつながる町道(通称「網野子道」)付近は、
「打畑(ウチバテヘ)」と呼ばれるところ

▲真ん中に見えるのが集落西側の小さな浜「ハルバマ」。
岬を越えると勝浦の浜「カラマ」で、奥に見える集落は勝浦集落

▲網野子の厳島神社は、清水の厳島神社からの分神。平成10年に改築

▲厳島神社境内にある戦没者慰霊碑。12名のかたの名前が刻まれている

▲厳島神社の祭壇。清潔に保たれ、榊や水、酒なども供えられており、
集落のかたが大事にしているのがよく分かる

▲祭壇の横に、イビガナシ。

▲厳島神社のそばにある、飲水汲み場の「ソツ」。
ほかにも「ソツノコ」「ソティミズ」と呼ぶかたも。
囲いの右部には「御行年記念」、左部は「昭和四年八月廿日」、
上部には桜が刻まれていた
* *
集落を歩いていくなかで、
大正15年生まれのTさん(男性)にもお話をうかがうことができました。
もともと古仁屋出身で、16歳の時に満州へ開拓団として行き、
その後、徳之島で終戦を迎えたTさん。
戦後は、一度奄美に戻った後、沖縄で仕事。
昭和28年の奄美群島本土復帰に伴い、
奄美大島に戻り、網野子に住み始めたそう。
網野子はとくに林業が盛んだったため、
Tさんも昭和40年代頃まで林業に従事。
そのため山の名前に詳しいかたでした。
Tさんが林業をしていた頃は、網野子の人も
山仕事をしてた人がほとんどだったそう。
終戦後しばらくは、空襲で焼け野原になった沖縄からの材木の引き合いが多く、
網野子の林業はその頃が全盛期。
古仁屋に製材所、
となりの勝浦集落に材木を買う人がいて、
山から運び出された木を、そのまま道で現金買いしてたことも。
昭和30年代になると、道を作るのに公共事業が始まって、
山仕事する人も減ったとのことでした。

▲網野子川の下流近くにあった墓地にて。土台がレンガになったお墓。
集落をはさんで対角線上の「打畑(ウチバテヘ)」にも墓地がある。

▲集落東側にある小さな浜は「小浜(クバマ)」。突端の岬は、「トグラ崎」。その上部は「トグラ山」

▲「クバマ」から裏手の「クビンジュラ」と呼ばれる場所に続く道。
クビンジュラはかつて貝が豊富にとれたいい場所で、網野子の人たちが行っていた

▲電柱のあたりが「百郡(モモグリ)」。このあたりで酒を作っていたそう

▲網野子大橋より少し上の部分は、上流「ウンコ」=上の川(コ)と呼ばれる場所

▲網野子大橋と網野子橋の間ぐらいが、中流「ナハンコ」=中の川(コ)

▲網野子橋の下部分は、水量も豊富。洗濯、野菜洗いなどなんでもしていた

▲網野子橋からだいぶ下流が、「シャンコ」=下の川(コ)
現在、全長4,243mにも及ぶ「網野子トンネル」は、
平成26年度の供用開始を目標に現在も整備中。
このトンネル、施工中のトンネルを除けば県内最長。
奄美大島最長の新和瀬トンネル(延長2,435m)よりも約1,800mも上回っています。
網野子トンネルが供用開始となれば、
その出入口となる網野子の様子や風景も変化していくかもしれません。
人口は100人切っていますが、
年間の旧暦行事も集落で資料としてまとめており、
網野子の伝統を絶やさないようにと伝えている集落。

▲集落正面の浜からは、勝浦、阿木名、伊須の集落も見えるが、
昔は他シマとの行き来や結婚は少なかったという
伝統芸能「アンドンデー」や「ムンジュル」、
そして毎月の「お達者会」「ゆらおう会」に象徴されるように、
網野子はとにかく女性が元気!
集落の中で出会うかたがたみなさんが、
われわれの聞き取り調査を温かく迎えていただきました。
今回、聞き取り調査にご協力いただいた
網野子集落のみなさま、
本当にありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
調査日 : 2013年10月22日(火)、31日(木)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 網野子集落 (鹿児島県大島郡瀬戸内町網野子)
奄美.asia / 調査員 Y.K
2013年12月05日
嘉鉄 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町で
シマ(集落)をめぐっての聞き取り調査。
10月9日(水)・18日(金)、
嘉鉄(かてつ)集落へ行ってきました。
シマの呼び方では、「カティッティ」。

▲県道626号沿い嘉鉄~蘇刈にある展望所、「ハートが見える風景」から望む嘉鉄集落
嘉鉄は、
瀬戸内町で東方(ひがしかた)と呼ばれるエリアにあります。
瀬戸内町の中心部、
古仁屋市街地から県道626号線を
ホノホシ海岸・ヤドリ浜方面へ車で約10分。

▲マネン崎展望台
ダイビングスポットとしても人気の嘉鉄湾が目の前にあり、
「マネン崎展望台」、「ハートが見える風景」と
周辺に展望スポットが整備された風光明媚なところ。

▲マネン崎展望台の目の前には大島海峡が広がる。
対岸右手は加計呂麻島、左手は奄美大島本島の最南端・皆津崎
嘉鉄集落の人口は222人、
世帯数は116(平成25年11月末現在)。
嘉鉄小学校もあり、Iターン者も多く、
行事が盛んで活気のある集落。
十五夜豊年祭・敬老会で披露される「ソーラ釣り」は、
大きなサワラ釣りの様子をユニークに表現する寸劇で
嘉鉄の名物となっています。

▲案内看板によると、となり集落の清水へ2.2km、蘇刈へは3.7km、伊須へ4.3km
*
今回は、
・ Sさん(男性、昭和5年生まれ)と、
・ Kさん(女性、昭和11年生まれ)にお話をうかがいました。
おふたりには、
・ 山や川、泉など地名の方言名
・ 製糖小屋、塩炊き小屋、鍛冶屋の場所など
・ かつて集落を囲んでいた川の整備、周辺の様子
・ 集落を守る権現、2回の移動などにまつわること
・ 戦争中の話。整備された道や防空壕、思い出
などについて教えていただきました。
Sさんは、昭和5年生まれ。
嘉鉄生まれ・育ちで、ずっと住んでいらっしゃいます。
大工として、シマの家をかなりの数作ったそう。

嘉鉄だけでなく、
奄美の歴史と文化を調べるのがライフワーク。
奄美関連の蔵書もたくさん。
さまざまなことに非常に詳しく、
80歳を超えているのに、その記憶力の良さに驚きです。
それもそのはず、
Sさんは、17歳の時から日記をつけていらっしゃるそう。
こういった記録は、
今後さらに貴重になるでしょうね。

▲聞き取りの様子
Sさんは「嘉鉄の年中行事」という冊子を作り、
次世代のためにと青壮年団に渡しています。
ただ簡潔にするためにまだ省いている部分も多く、
嘉鉄集落の歴史をもっときちんと残しておきたいとのことで、
補完したものをさらに作りたいと意欲的でした。
* *
嘉鉄には、かつて集落の中に治水のための川が作られていたそう。
約190年ぐらい前までは土地と海の高さの差がなかったために、
満潮や大潮の時に集落のずっと上まで潮があがってしまい、
田んぼもみんな枯れてしまっていました。
その時は、集落の中の田んぼで魚が獲れて喜ばれたりも(笑)したそうですが、
たびたび集落一面が水浸しになるのは大変なことですよね。
集落の中を巡るように約10年かけて川を作り、
今の小学校の体育館あたりには、
竹で「カラミ」という柵のようなものを作って水を堰き止める場所があったり、
板付け舟の舟着場などもあったそうです。
* * *
Sさんに教えていただいた、嘉鉄の里(サト)にある一画。
嘉鉄に最初に人が住み始めたあたりで、鍛冶屋もあった所。

▲ ここにかつて大きな木があり、海から漁師が目印として利用。近くには、製糖小屋もあり
正面に見える山は、「ガラス山」。
その周辺の山も、「トウザラシ」「アサト」「グスクダヤマ」などの呼び方が。

簡易水道ができる以前は、住民の重要な水源だった泉。
こちらは「ヤンゴ」。小学校から東側住民の水汲み場。
嘉鉄出身で、大正時代に瀬戸内町長を務めた加 勇四郎氏の碑も。

山のほうにある水汲み場「グスクダ」は、
小学校から西側の住民の水汲み場でした。

近年続けて起こった豪雨災害の時は、
断水が続き、この2つの水汲み場をみなさん利用したとか。
自然の恵みがあるというのは、たいへんありがたいことですね。
* * * *
もうお一人お話をうかがったのは、
女性のKさん、昭和11年生まれ。
Kさん曰く、嘉鉄が川に囲まれていた時代、
「その頃の集落は、とっても風情があった」そう。
最初にお話をうかがったS氏からもあった
治水のために作られていた川。
Kさんから教えていただいたのは、その川回りで生活する人々の豊かな風景。
子供たちは学校帰りに川で遊び、
ウナギやフナ、ヌマエビの子供「セエ」もよく獲れたとか。
食べ方は、もっぱら塩ゆで。
当時は油が貴重なもの。
「もうザルいっぱいに獲れてた。
あの頃、エビを天ぷらにできてたらさぞかし美味しかっただろうね~」と。
集落の中を通るこの道沿いに、かつて川がありました。

▲川があった頃、このあたりに「カラミ」と呼ばれる竹で作った堰のようなものや舟着場もあった
また嘉鉄の集落東側の岬は「ビンディン」と呼ばれ、
手前には「マンガンジ」という岩があります。
その2つの岩で、
”マンキュン(招く)”の踊りをする、
龍郷町の「平瀬マンカイ」(国指定重要無形民俗文化財)と似た行事があったと聞いているそうです。
またKさんは、ひいおばあちゃんから
「山津波(土砂崩れ)が起きるから、ガラスヤマの木を切らないように」と言われていたそう。
戦時中には、山の中に「サンダンゴウ」と呼ばれる
防空壕が作られていました。
アメリカが上陸してきたら
最終的に避難する場所に掘られたのでは?とのこと。
ある日、雷を艦砲射撃と間違えてシマの人は避難。
Kさんもひと晩そこに泊まり、
その夜明けのアカヒゲなど鳥の鳴き声が忘れられないとおっしゃってました。
* * * * *
そのほか、聞き取り調査をした後には、
集落内を実際に歩いていろいろと確認していきました。
権現山。嘉鉄には、「カミヤマ」と呼ばれる場所はないそう。
最初あった場所から、昭和39年、平成23年と2回の移動をへてこの場所に。

嘉鉄の権現さま。平成23年に建立されたのでまだぴかぴか。
戦争で亡くなられたかたの慰霊碑もあります。

ここで旧暦9月9日に「権現(グンギン)祭り」をとり行います。
嘉鉄の守り神は、「島尊祖加那志」。
亡くなった祖先の霊は33年を過ぎると、海の遥か彼方から神となって
自分の生まれ育った集落に戻って集落を見守るといわれています。
由来など書いた碑があり、
シマを学ぶものとして、ありがたい資料です。
この権現さまと慰霊碑のところから集落を眺めるとこんな感じ。

さらに、前に進むと・・、こんな風景が広がります。
権現さまからは、集落を一望でき景色が素晴らしい。

”集落を見守ってくれている”感がありますね。
ですが、見晴らしがいいことで、
このあたりには戦時中、軍が見張り台を設置していたそうです・・。
瀬戸内町の営農支援センターもあり
パッションフルーツ栽培なども盛ん。

県道沿いに農作物の直売所もあり。

嘉鉄小学校。校区は、嘉鉄・蘇刈・伊須。
児童数は、18名(平成25年4月8日現在。鹿児島県教育委員会資料より)。
ドラマや映画のロケに使用されることもたびたびで
最近ではNHKの土曜ドラマ「ジャッジ」にも登場。児童も出演しています。

嘉鉄小学校にも、以前は奉安殿があったそう。
小学校の東側の敷地は、かつては集落で最も古い墓地があり、
校庭の真ん中をミャー(広場)として使用。
土俵もあり、八月踊りや豊年祭を行っていました。
嘉鉄小学校の体育館。

嘉鉄公民館。保育所としても利用されています。

公民館と体育館の間にある、現在の土俵とミャー(広場)。
豊年祭は現在ここで開催。目の前には青い海が広がります。

嘉鉄には商店が2つ。

▲「勝商店」

▲「重満商店」
勝商店そばのT字路にある魔除けの石敢當。

県道沿いにある石敢當。こちらは自然石を利用。

崩れたあたりは、自然の洞窟「チキアム」と呼ばれ風葬跡ではないかと伝えられています。
戦時中、防空壕としても利用されていました。

ガジュマルの木陰ができ、雰囲気のいい嘉鉄の海岸。
旧暦行事「ハマオレ」は嘉鉄内の5班に分かれて、
浜の木陰でゲームなどをして楽しみます。

やはり集落に小学校があると、にぎやかさが違いますね。

県道沿いから美しい嘉鉄ブルーが堪能できる嘉鉄湾。
とくに真夏の青のグラデーションは素晴らしいのひと言です。

嘉鉄は、古仁屋からも近いながら、
サンゴの石垣も残り、海岸のあたりや家並みなども美しく、
シマの雰囲気を味わえる集落。
ゆっくりと散策して楽しめます。
今回も貴重なお話をうかがうことができました。
近くに住んでいても、
知らないことがいっぱいあり驚きばかり。
Sさんと、Kさん。
ほんの少し世代が違ったり、過ごしてきた環境が違うと
シマに対する思い出や印象、語られるお話も違ってきます。
さまざまなアングルから集落を知ることは、重要であり、
どれもそのシマを表しているのだと思います。
調査にご協力いただいた嘉鉄集落のみなさま、
ありがとうございました。
*
調査日 : 2013年 10月9日(水)・18日(金)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉鉄集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町嘉鉄 )
奄美.asia 調査員 Y・K
シマ(集落)をめぐっての聞き取り調査。
10月9日(水)・18日(金)、
嘉鉄(かてつ)集落へ行ってきました。
シマの呼び方では、「カティッティ」。

▲県道626号沿い嘉鉄~蘇刈にある展望所、「ハートが見える風景」から望む嘉鉄集落
嘉鉄は、
瀬戸内町で東方(ひがしかた)と呼ばれるエリアにあります。
瀬戸内町の中心部、
古仁屋市街地から県道626号線を
ホノホシ海岸・ヤドリ浜方面へ車で約10分。

▲マネン崎展望台
ダイビングスポットとしても人気の嘉鉄湾が目の前にあり、
「マネン崎展望台」、「ハートが見える風景」と
周辺に展望スポットが整備された風光明媚なところ。

▲マネン崎展望台の目の前には大島海峡が広がる。
対岸右手は加計呂麻島、左手は奄美大島本島の最南端・皆津崎
嘉鉄集落の人口は222人、
世帯数は116(平成25年11月末現在)。
嘉鉄小学校もあり、Iターン者も多く、
行事が盛んで活気のある集落。
十五夜豊年祭・敬老会で披露される「ソーラ釣り」は、
大きなサワラ釣りの様子をユニークに表現する寸劇で
嘉鉄の名物となっています。

▲案内看板によると、となり集落の清水へ2.2km、蘇刈へは3.7km、伊須へ4.3km
*
今回は、
・ Sさん(男性、昭和5年生まれ)と、
・ Kさん(女性、昭和11年生まれ)にお話をうかがいました。
おふたりには、
・ 山や川、泉など地名の方言名
・ 製糖小屋、塩炊き小屋、鍛冶屋の場所など
・ かつて集落を囲んでいた川の整備、周辺の様子
・ 集落を守る権現、2回の移動などにまつわること
・ 戦争中の話。整備された道や防空壕、思い出
などについて教えていただきました。
Sさんは、昭和5年生まれ。
嘉鉄生まれ・育ちで、ずっと住んでいらっしゃいます。
大工として、シマの家をかなりの数作ったそう。

嘉鉄だけでなく、
奄美の歴史と文化を調べるのがライフワーク。
奄美関連の蔵書もたくさん。
さまざまなことに非常に詳しく、
80歳を超えているのに、その記憶力の良さに驚きです。
それもそのはず、
Sさんは、17歳の時から日記をつけていらっしゃるそう。
こういった記録は、
今後さらに貴重になるでしょうね。

▲聞き取りの様子
Sさんは「嘉鉄の年中行事」という冊子を作り、
次世代のためにと青壮年団に渡しています。
ただ簡潔にするためにまだ省いている部分も多く、
嘉鉄集落の歴史をもっときちんと残しておきたいとのことで、
補完したものをさらに作りたいと意欲的でした。
* *
嘉鉄には、かつて集落の中に治水のための川が作られていたそう。
約190年ぐらい前までは土地と海の高さの差がなかったために、
満潮や大潮の時に集落のずっと上まで潮があがってしまい、
田んぼもみんな枯れてしまっていました。
その時は、集落の中の田んぼで魚が獲れて喜ばれたりも(笑)したそうですが、
たびたび集落一面が水浸しになるのは大変なことですよね。
集落の中を巡るように約10年かけて川を作り、
今の小学校の体育館あたりには、
竹で「カラミ」という柵のようなものを作って水を堰き止める場所があったり、
板付け舟の舟着場などもあったそうです。
* * *
Sさんに教えていただいた、嘉鉄の里(サト)にある一画。
嘉鉄に最初に人が住み始めたあたりで、鍛冶屋もあった所。
▲ ここにかつて大きな木があり、海から漁師が目印として利用。近くには、製糖小屋もあり
正面に見える山は、「ガラス山」。
その周辺の山も、「トウザラシ」「アサト」「グスクダヤマ」などの呼び方が。
簡易水道ができる以前は、住民の重要な水源だった泉。
こちらは「ヤンゴ」。小学校から東側住民の水汲み場。
嘉鉄出身で、大正時代に瀬戸内町長を務めた加 勇四郎氏の碑も。

山のほうにある水汲み場「グスクダ」は、
小学校から西側の住民の水汲み場でした。

近年続けて起こった豪雨災害の時は、
断水が続き、この2つの水汲み場をみなさん利用したとか。
自然の恵みがあるというのは、たいへんありがたいことですね。
* * * *
もうお一人お話をうかがったのは、
女性のKさん、昭和11年生まれ。
Kさん曰く、嘉鉄が川に囲まれていた時代、
「その頃の集落は、とっても風情があった」そう。
最初にお話をうかがったS氏からもあった
治水のために作られていた川。
Kさんから教えていただいたのは、その川回りで生活する人々の豊かな風景。
子供たちは学校帰りに川で遊び、
ウナギやフナ、ヌマエビの子供「セエ」もよく獲れたとか。
食べ方は、もっぱら塩ゆで。
当時は油が貴重なもの。
「もうザルいっぱいに獲れてた。
あの頃、エビを天ぷらにできてたらさぞかし美味しかっただろうね~」と。
集落の中を通るこの道沿いに、かつて川がありました。

▲川があった頃、このあたりに「カラミ」と呼ばれる竹で作った堰のようなものや舟着場もあった
また嘉鉄の集落東側の岬は「ビンディン」と呼ばれ、
手前には「マンガンジ」という岩があります。
その2つの岩で、
”マンキュン(招く)”の踊りをする、
龍郷町の「平瀬マンカイ」(国指定重要無形民俗文化財)と似た行事があったと聞いているそうです。
またKさんは、ひいおばあちゃんから
「山津波(土砂崩れ)が起きるから、ガラスヤマの木を切らないように」と言われていたそう。
戦時中には、山の中に「サンダンゴウ」と呼ばれる
防空壕が作られていました。
アメリカが上陸してきたら
最終的に避難する場所に掘られたのでは?とのこと。
ある日、雷を艦砲射撃と間違えてシマの人は避難。
Kさんもひと晩そこに泊まり、
その夜明けのアカヒゲなど鳥の鳴き声が忘れられないとおっしゃってました。
* * * * *
そのほか、聞き取り調査をした後には、
集落内を実際に歩いていろいろと確認していきました。
権現山。嘉鉄には、「カミヤマ」と呼ばれる場所はないそう。
最初あった場所から、昭和39年、平成23年と2回の移動をへてこの場所に。

嘉鉄の権現さま。平成23年に建立されたのでまだぴかぴか。
戦争で亡くなられたかたの慰霊碑もあります。

ここで旧暦9月9日に「権現(グンギン)祭り」をとり行います。
嘉鉄の守り神は、「島尊祖加那志」。
亡くなった祖先の霊は33年を過ぎると、海の遥か彼方から神となって
自分の生まれ育った集落に戻って集落を見守るといわれています。
由来など書いた碑があり、
シマを学ぶものとして、ありがたい資料です。
この権現さまと慰霊碑のところから集落を眺めるとこんな感じ。

さらに、前に進むと・・、こんな風景が広がります。
権現さまからは、集落を一望でき景色が素晴らしい。

”集落を見守ってくれている”感がありますね。
ですが、見晴らしがいいことで、
このあたりには戦時中、軍が見張り台を設置していたそうです・・。
瀬戸内町の営農支援センターもあり
パッションフルーツ栽培なども盛ん。

県道沿いに農作物の直売所もあり。

嘉鉄小学校。校区は、嘉鉄・蘇刈・伊須。
児童数は、18名(平成25年4月8日現在。鹿児島県教育委員会資料より)。
ドラマや映画のロケに使用されることもたびたびで
最近ではNHKの土曜ドラマ「ジャッジ」にも登場。児童も出演しています。

嘉鉄小学校にも、以前は奉安殿があったそう。
小学校の東側の敷地は、かつては集落で最も古い墓地があり、
校庭の真ん中をミャー(広場)として使用。
土俵もあり、八月踊りや豊年祭を行っていました。
嘉鉄小学校の体育館。

嘉鉄公民館。保育所としても利用されています。

公民館と体育館の間にある、現在の土俵とミャー(広場)。
豊年祭は現在ここで開催。目の前には青い海が広がります。

嘉鉄には商店が2つ。

▲「勝商店」

▲「重満商店」
勝商店そばのT字路にある魔除けの石敢當。

県道沿いにある石敢當。こちらは自然石を利用。

崩れたあたりは、自然の洞窟「チキアム」と呼ばれ風葬跡ではないかと伝えられています。
戦時中、防空壕としても利用されていました。

ガジュマルの木陰ができ、雰囲気のいい嘉鉄の海岸。
旧暦行事「ハマオレ」は嘉鉄内の5班に分かれて、
浜の木陰でゲームなどをして楽しみます。

やはり集落に小学校があると、にぎやかさが違いますね。

県道沿いから美しい嘉鉄ブルーが堪能できる嘉鉄湾。
とくに真夏の青のグラデーションは素晴らしいのひと言です。
嘉鉄は、古仁屋からも近いながら、
サンゴの石垣も残り、海岸のあたりや家並みなども美しく、
シマの雰囲気を味わえる集落。
ゆっくりと散策して楽しめます。
今回も貴重なお話をうかがうことができました。
近くに住んでいても、
知らないことがいっぱいあり驚きばかり。
Sさんと、Kさん。
ほんの少し世代が違ったり、過ごしてきた環境が違うと
シマに対する思い出や印象、語られるお話も違ってきます。
さまざまなアングルから集落を知ることは、重要であり、
どれもそのシマを表しているのだと思います。
調査にご協力いただいた嘉鉄集落のみなさま、
ありがとうございました。
*
調査日 : 2013年 10月9日(水)・18日(金)
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉鉄集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町嘉鉄 )
奄美.asia 調査員 Y・K
2013年12月03日
平成25年度 清水集落豊年祭・敬老会
平成25年度 清水集落豊年祭・敬老会
日時 : 2013年(平成25年) 9月15日 日曜日
天気 : 晴れ
場所 : 奄美大島 瀬戸内町 清水(せいすい)集落 公民館前ミャー(広場)
内容 : 写真および映像の記録
前日の嘉鉄に引き続き、
瀬戸内町の清水集落で豊年祭・敬老会の記録を行ないました。
清水では午後2時に始まり、
夕方5時まで、各種の踊りや相撲などが例年通り開催。

清水集落で行われた豊年祭のおおまかな流れをご紹介します。
【 豊年祭・敬老会の流れ 】
・開会宣言
・区長挨拶
・敬老者代表挨拶
・祝電披露
・土俵開き
・各種踊り
・相撲
・八月踊り


真剣な相撲が始まりました。


▲力飯を担いだ、すもとぅりゃ(お相撲とり、力士)のみなさん
豊年祭に欠かせないものとして、「力飯」(ちからめし)というのがあります。
力飯とは浅い入れ物に飾りをつけたおにぎりをのせてあるものです。
祭りの中ではこのおにぎりが配られ、
地域によって異なりますが、
元気に暮らせるようにといった意味が込められています。
清水では、昔ながらの「サンバラ」という竹で編んだ浅いかごに、
飾りとして竹笹とハイビスカスの花が添えられていて大変綺麗でした。

▲ハイビスカスや竹笹で綺麗に飾られた力飯
清水の豊年祭の余興として名物だった「模擬闘牛」。
長らく行われていませんでしたが、なんと19年ぶりに復活。
今年は赤ちゃん牛が誕生とのことで、お披露目のみになりましたが、
集落の「アガレ」(東)と「イリ(西)」のそれぞれの子牛が観客に披露され
「ワイドー! ワイドー!」の掛け声とともに、会場を練り歩きました。
来年は勇ましい模擬闘牛が会場を沸かせてくれることでしょう。

▲本物の牛ですよね!?

▲本物の女性達(!?)がマツケンサンバを踊りました。清水集落若手の余興

▲清水婦人会による余興「稲スリ節」。
田植え、稲刈り、脱穀など稲作の過程を軽快な唄にのって、おもしろ可笑しく表現します

▲天下泰平の軍配が土俵中央に立てられて、お開きとなりました。

▲その後は八月踊りへ・・・。
以上となります。
豊年祭は集落によって内容が違うので、
今後もいろんな集落の行事をみてみたいと思います。
報告 : 奄美.asia 調査員 / 朝修一
調査日 : 2013年9月15日 (日)
調査場所 : 瀬戸内町 清水集落
日時 : 2013年(平成25年) 9月15日 日曜日
天気 : 晴れ
場所 : 奄美大島 瀬戸内町 清水(せいすい)集落 公民館前ミャー(広場)
内容 : 写真および映像の記録
前日の嘉鉄に引き続き、
瀬戸内町の清水集落で豊年祭・敬老会の記録を行ないました。
清水では午後2時に始まり、
夕方5時まで、各種の踊りや相撲などが例年通り開催。
清水集落で行われた豊年祭のおおまかな流れをご紹介します。
【 豊年祭・敬老会の流れ 】
・開会宣言
・区長挨拶
・敬老者代表挨拶
・祝電披露
・土俵開き
・各種踊り
・相撲
・八月踊り
真剣な相撲が始まりました。
▲力飯を担いだ、すもとぅりゃ(お相撲とり、力士)のみなさん
豊年祭に欠かせないものとして、「力飯」(ちからめし)というのがあります。
力飯とは浅い入れ物に飾りをつけたおにぎりをのせてあるものです。
祭りの中ではこのおにぎりが配られ、
地域によって異なりますが、
元気に暮らせるようにといった意味が込められています。
清水では、昔ながらの「サンバラ」という竹で編んだ浅いかごに、
飾りとして竹笹とハイビスカスの花が添えられていて大変綺麗でした。
▲ハイビスカスや竹笹で綺麗に飾られた力飯
清水の豊年祭の余興として名物だった「模擬闘牛」。
長らく行われていませんでしたが、なんと19年ぶりに復活。
今年は赤ちゃん牛が誕生とのことで、お披露目のみになりましたが、
集落の「アガレ」(東)と「イリ(西)」のそれぞれの子牛が観客に披露され
「ワイドー! ワイドー!」の掛け声とともに、会場を練り歩きました。
来年は勇ましい模擬闘牛が会場を沸かせてくれることでしょう。
▲本物の牛ですよね!?
▲本物の女性達(!?)がマツケンサンバを踊りました。清水集落若手の余興
▲清水婦人会による余興「稲スリ節」。
田植え、稲刈り、脱穀など稲作の過程を軽快な唄にのって、おもしろ可笑しく表現します
▲天下泰平の軍配が土俵中央に立てられて、お開きとなりました。
▲その後は八月踊りへ・・・。
以上となります。
豊年祭は集落によって内容が違うので、
今後もいろんな集落の行事をみてみたいと思います。
報告 : 奄美.asia 調査員 / 朝修一
調査日 : 2013年9月15日 (日)
調査場所 : 瀬戸内町 清水集落
2013年12月02日
平成25年度 嘉鉄集落豊年祭・敬老会
平成25年度 嘉鉄集落豊年祭・敬老会
日時 : 2013年(平成25年) 9月14日 土曜日
天気 : 曇時々小雨
場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉鉄(かてつ)集落公民館前
内容 : 写真及び映像の記録
奄美大島では、現在でも各集落で様々な伝統行事が行われています。
今回は、秋に行われる豊年祭・敬老会の記録を、
瀬戸内町嘉鉄集落でおこないました。

▲豊年祭・敬老会が始まった直ぐに小雨が・・・。
行事は午後1時に始まり、
夕方4時半まで各種の踊りや相撲などがおこなわれました。
嘉鉄の豊年祭がある日は、不思議と雨が降るそうです。
今年も小雨が最初パラついたものの、
中盤から終盤にかけては曇りで、
それほど強い日差しがないいい状態のなかで催されました。
全く関係ありませんが、こういったたぐいの話を思い出してみると、
七夕の日(旧暦七月七日)の雨の話もあります。
七夕には竹に飾りをつけて外に立てますが、
どういうわけか、外にかけて立てるとも雨になることが多いと言われており、
実際そう感じています。
ほんとうのところは分かりませんが、
昔から人々はこういった感覚を記憶し、
それを行事の時の話のネタにしていたかもしれませんね。
* *
さて、嘉鉄の豊年祭ですが、
最初から最後まで無事行われました。
【 豊年祭の流れ 】
・開会挨拶
・各種踊り
・奉納相撲
・ソーラ釣り
・余興相撲 初切(今年度初)
・閉会挨拶
・八月踊り

▲正面にお供えされていたのは砂糖黍と左手にお米、右手に塩になります。

▲婦人会のみなさんによる踊り

▲幼稚園児も踊ります。

▲嘉鉄小学校の生徒さんが踊りに備えて待機中。
嘉鉄の豊年祭にはいくつか特徴的なものがありますが、
その中でも有名になっている「ソーラ釣り(サワラ釣り)」の踊りです。
戦後、地元青年団の有志が、余興が少ないのでと考案されたものです。
踊り手は漁師2名、サワラ1名で構成されており、
サワラと漁師のやりとりが毎年アドリブで違っていて、
大変おもしろい余興になっています。
そういった中、名物のソーラ釣りは、
そろそろ無形文化財に指定してはどうか?とのマイク放送もありました。
今後も途切れることなく、継承していっていただければと思います。

▲恒例のかてつ丸が登場しソーラ釣りとなります。
さらに、今年度から余興相撲に初切(しょっきり)も加わりました!
初切とは、相撲の禁じ手などをおもしろおかしく紹介する取り組みで、
大相撲の巡業などでもおこなわれています。
今回は瀬戸内町でも有名?な嘉鉄出身の余興メンバーが二人でおこないました。
二人とも上手に初切をやりきり、観客から歓声が沸いていました。
こういった新しい取り組みも、継続していくことで伝統になっていくのかもしれませんね。

▲今年(平成25年度)から余興相撲があり会場では笑いが溢れました。
報告 : 奄美.asia 調査員 / 朝修一
調査場所 : 瀬戸内町 嘉鉄
調査日時 : 2013年 9月14日(土)
日時 : 2013年(平成25年) 9月14日 土曜日
天気 : 曇時々小雨
場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉鉄(かてつ)集落公民館前
内容 : 写真及び映像の記録
奄美大島では、現在でも各集落で様々な伝統行事が行われています。
今回は、秋に行われる豊年祭・敬老会の記録を、
瀬戸内町嘉鉄集落でおこないました。
▲豊年祭・敬老会が始まった直ぐに小雨が・・・。
行事は午後1時に始まり、
夕方4時半まで各種の踊りや相撲などがおこなわれました。
嘉鉄の豊年祭がある日は、不思議と雨が降るそうです。
今年も小雨が最初パラついたものの、
中盤から終盤にかけては曇りで、
それほど強い日差しがないいい状態のなかで催されました。
全く関係ありませんが、こういったたぐいの話を思い出してみると、
七夕の日(旧暦七月七日)の雨の話もあります。
七夕には竹に飾りをつけて外に立てますが、
どういうわけか、外にかけて立てるとも雨になることが多いと言われており、
実際そう感じています。
ほんとうのところは分かりませんが、
昔から人々はこういった感覚を記憶し、
それを行事の時の話のネタにしていたかもしれませんね。
* *
さて、嘉鉄の豊年祭ですが、
最初から最後まで無事行われました。
【 豊年祭の流れ 】
・開会挨拶
・各種踊り
・奉納相撲
・ソーラ釣り
・余興相撲 初切(今年度初)
・閉会挨拶
・八月踊り
▲正面にお供えされていたのは砂糖黍と左手にお米、右手に塩になります。
▲婦人会のみなさんによる踊り
▲幼稚園児も踊ります。
▲嘉鉄小学校の生徒さんが踊りに備えて待機中。
嘉鉄の豊年祭にはいくつか特徴的なものがありますが、
その中でも有名になっている「ソーラ釣り(サワラ釣り)」の踊りです。
戦後、地元青年団の有志が、余興が少ないのでと考案されたものです。
踊り手は漁師2名、サワラ1名で構成されており、
サワラと漁師のやりとりが毎年アドリブで違っていて、
大変おもしろい余興になっています。
そういった中、名物のソーラ釣りは、
そろそろ無形文化財に指定してはどうか?とのマイク放送もありました。
今後も途切れることなく、継承していっていただければと思います。
▲恒例のかてつ丸が登場しソーラ釣りとなります。
さらに、今年度から余興相撲に初切(しょっきり)も加わりました!
初切とは、相撲の禁じ手などをおもしろおかしく紹介する取り組みで、
大相撲の巡業などでもおこなわれています。
今回は瀬戸内町でも有名?な嘉鉄出身の余興メンバーが二人でおこないました。
二人とも上手に初切をやりきり、観客から歓声が沸いていました。
こういった新しい取り組みも、継続していくことで伝統になっていくのかもしれませんね。
▲今年(平成25年度)から余興相撲があり会場では笑いが溢れました。
報告 : 奄美.asia 調査員 / 朝修一
調査場所 : 瀬戸内町 嘉鉄
調査日時 : 2013年 9月14日(土)
2013年10月25日
嘉徳 シマ(集落)めぐり
奄美大島本島にある瀬戸内町の集落を一つひとつめぐり、
集落空間がどう作られているのか
また集落の地名や山・川・泉などの方言名、
昔話などを聞き取り調査をすすめています。
9月26日(木)に
嘉徳(かとく)集落にうかがいました。

嘉徳は、島での呼び名・方言名は「カドホ」。
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる
山深いエリアにある集落。
奄美市名瀬から国道58号線を南下し、
瀬戸内町の古仁屋へ向かう網野子峠の途中から町道へ下り、
さらに5キロほど行った先にあります。
背後には、豊かな山々と、
そこから湧き出る清流・嘉徳川。
また護岸がなく、
アダンが並ぶ昔ながらの海岸は、波もよくサーファーにも人気。
豊かな自然と、
どこか神秘的な雰囲気に魅せられる人も多い集落です。

嘉徳には、シマ唄の『嘉徳なべ加那節』に歌われ、
実在したと言われる人物「なべ加那」の墓が、
海岸近くの墓地にあります。

なべ加那は、高貴な女性とも、親不孝者とも諸説あり
その実像ははっきりしませんが、
抑揚の激しい難曲ながら、、
美しいメロディで多くの人々から愛されている1曲です。
また、現在、藍染め工房のある付近は、
縄文後期時代の遺物が昭和48年に発見された「嘉徳遺跡」もあります。

嘉徳区長の徳田博也さん(昭和25年生まれ))に
案内をしていただきました。

嘉徳集落は、
世帯数15世帯、人口26名(平成25年9月末現在)。
人口がかなり少なくなったため、
豊年祭・敬老会などの行事も現在では行われておらず、
昔話をできる高齢者も非常に少なくなっています。
今回は、昭和3年生まれの、
T・Hさん(女性)に聞き取り調査。
・ 昔の暮らしの様子
・ 集落内の川や橋などの方言での呼び名
・ 炭焼き小屋や、マシュ炊き(塩炊き)小屋について
・ ソテツ味噌作り、下駄づくり、わらじづくり
・ 昔の生活道具の使い方、作っていた人、
・ 漁業、林業の様子
などなどを教えていただきました。
ここは、昔の海岸へ行く道。

海岸の左側にある山は、「カミヤマ」、
その下あたりは「オホチ」と呼ばれ、集落にとって神聖な場所となっています。
また山の上から見張って合図をし、追い込み漁もしていました。
特に嘉徳のウルメは珍しくて有名だったそう。
※ウルメとは、赤ウルメ(タカサゴ)、青ウルメ(ムロアジ)

また海岸そばにも、もう1ヶ所「カミヤマ」と呼ばれる場所があり、
こちらも神聖な場所として、
区長さんは立ち入らないそうです。

バス停がある付近には、
昔、ミャー(広場)があり、
ここに浜から砂を持ってきて土俵を作って豊年祭をやっていました。

平成16年度(2004年度)に休校となった嘉徳小学校。
現在は、画家の堀 晃さん(ほり・ひかる)さんが
創作空間「ムンユスィ館」として
アトリエ&ギャラリーとして利用しています。
校庭には立派なアカギの木が、見事な木陰を作っています。
ここでお弁当を広げるのは最高ですね。

また校庭の片隅には、炭焼小屋が。
かつて嘉徳では、生業として炭焼きが盛んに行われており、
古仁屋の森林組合や、喜界島にも販売されていたとか。

学校裏に流れる川は「ウッコンコ」と呼ばれ、
その上流の田喜(たき)では、集落の人々が飲み水を汲んでいました。
川の下流は、洗濯場として利用。

田んぼ跡。集落には、田んぼも数多くありました。

徳田区長が所有していた、
昔の嘉徳集落の写真。

年代が分からないそうですが、嘉徳小学校が鉄筋校舎。
落成記念に撮ったものでしょうか。
茅葺きとトタンの屋根が混在しています。
もしこの写真の年代をご存知のかた、教えてください。
* *
集落入口近くの携帯電話の電波塔のあたりには、
昔、製材所とサタゴヤ(製糖小屋)があったそうです。
ユニークだったのは、集落入口から3つある橋の呼び名。
国道58号線に一番近い、川内橋が「フウゴッチ」
その次の、嘉徳橋が「ワタッチ」

リュウキュウアユもまだいるのでしょうか?
昔はよくハアガン・ウレガンと呼ばれる蟹を取りに来ていたと、
徳田区長さん。
藍染めのよしかわ工房前にある金久橋が「ソーメンティミ」。

素麺と、ティミは爪?のことでしょうか?
それぞれの名前の由来ははっきりしませんでしたが、
集落ならではの呼び方があるのは、財産ですね。
また嘉徳集落内は24もの小字があり、
シマでよく聞く小字の金久(かねく)、中里(なかざと)だけでなく、
前辺蛇(まえへじゃ)、大辺蛇(おおへじゃ)などから、
嘉徳の隣、住用村にある青久(あおく)と同じ名前の小字・青久、
節子道(せっこどう)もあります。
興味深いですね。

このように、3月まで
奄美大島本島にある瀬戸内町の集落をめぐり、
集落にまつわるさまざまなことを聞き取り調査していきます。
その活動の様子を
こちらのブログで報告していきます。
みなさんのシマ情報もお待ちしておりますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
調査日 : 2013年9月26日(木) 晴れ
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉徳集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町嘉徳 )
奄美.asia 調査員 / Y・K
集落空間がどう作られているのか
また集落の地名や山・川・泉などの方言名、
昔話などを聞き取り調査をすすめています。
9月26日(木)に
嘉徳(かとく)集落にうかがいました。

嘉徳は、島での呼び名・方言名は「カドホ」。
瀬戸内町の山郷(やまぐん)と呼ばれる
山深いエリアにある集落。
奄美市名瀬から国道58号線を南下し、
瀬戸内町の古仁屋へ向かう網野子峠の途中から町道へ下り、
さらに5キロほど行った先にあります。
背後には、豊かな山々と、
そこから湧き出る清流・嘉徳川。
また護岸がなく、
アダンが並ぶ昔ながらの海岸は、波もよくサーファーにも人気。
豊かな自然と、
どこか神秘的な雰囲気に魅せられる人も多い集落です。

嘉徳には、シマ唄の『嘉徳なべ加那節』に歌われ、
実在したと言われる人物「なべ加那」の墓が、
海岸近くの墓地にあります。

なべ加那は、高貴な女性とも、親不孝者とも諸説あり
その実像ははっきりしませんが、
抑揚の激しい難曲ながら、、
美しいメロディで多くの人々から愛されている1曲です。
また、現在、藍染め工房のある付近は、
縄文後期時代の遺物が昭和48年に発見された「嘉徳遺跡」もあります。
嘉徳区長の徳田博也さん(昭和25年生まれ))に
案内をしていただきました。

嘉徳集落は、
世帯数15世帯、人口26名(平成25年9月末現在)。
人口がかなり少なくなったため、
豊年祭・敬老会などの行事も現在では行われておらず、
昔話をできる高齢者も非常に少なくなっています。
今回は、昭和3年生まれの、
T・Hさん(女性)に聞き取り調査。
・ 昔の暮らしの様子
・ 集落内の川や橋などの方言での呼び名
・ 炭焼き小屋や、マシュ炊き(塩炊き)小屋について
・ ソテツ味噌作り、下駄づくり、わらじづくり
・ 昔の生活道具の使い方、作っていた人、
・ 漁業、林業の様子
などなどを教えていただきました。
ここは、昔の海岸へ行く道。

海岸の左側にある山は、「カミヤマ」、
その下あたりは「オホチ」と呼ばれ、集落にとって神聖な場所となっています。
また山の上から見張って合図をし、追い込み漁もしていました。
特に嘉徳のウルメは珍しくて有名だったそう。
※ウルメとは、赤ウルメ(タカサゴ)、青ウルメ(ムロアジ)

また海岸そばにも、もう1ヶ所「カミヤマ」と呼ばれる場所があり、
こちらも神聖な場所として、
区長さんは立ち入らないそうです。

バス停がある付近には、
昔、ミャー(広場)があり、
ここに浜から砂を持ってきて土俵を作って豊年祭をやっていました。

平成16年度(2004年度)に休校となった嘉徳小学校。
現在は、画家の堀 晃さん(ほり・ひかる)さんが
創作空間「ムンユスィ館」として
アトリエ&ギャラリーとして利用しています。
校庭には立派なアカギの木が、見事な木陰を作っています。
ここでお弁当を広げるのは最高ですね。

また校庭の片隅には、炭焼小屋が。
かつて嘉徳では、生業として炭焼きが盛んに行われており、
古仁屋の森林組合や、喜界島にも販売されていたとか。

学校裏に流れる川は「ウッコンコ」と呼ばれ、
その上流の田喜(たき)では、集落の人々が飲み水を汲んでいました。
川の下流は、洗濯場として利用。

田んぼ跡。集落には、田んぼも数多くありました。

徳田区長が所有していた、
昔の嘉徳集落の写真。

年代が分からないそうですが、嘉徳小学校が鉄筋校舎。
落成記念に撮ったものでしょうか。
茅葺きとトタンの屋根が混在しています。
もしこの写真の年代をご存知のかた、教えてください。
* *
集落入口近くの携帯電話の電波塔のあたりには、
昔、製材所とサタゴヤ(製糖小屋)があったそうです。
ユニークだったのは、集落入口から3つある橋の呼び名。
国道58号線に一番近い、川内橋が「フウゴッチ」
その次の、嘉徳橋が「ワタッチ」

リュウキュウアユもまだいるのでしょうか?
昔はよくハアガン・ウレガンと呼ばれる蟹を取りに来ていたと、
徳田区長さん。
藍染めのよしかわ工房前にある金久橋が「ソーメンティミ」。

素麺と、ティミは爪?のことでしょうか?
それぞれの名前の由来ははっきりしませんでしたが、
集落ならではの呼び方があるのは、財産ですね。
また嘉徳集落内は24もの小字があり、
シマでよく聞く小字の金久(かねく)、中里(なかざと)だけでなく、
前辺蛇(まえへじゃ)、大辺蛇(おおへじゃ)などから、
嘉徳の隣、住用村にある青久(あおく)と同じ名前の小字・青久、
節子道(せっこどう)もあります。
興味深いですね。

このように、3月まで
奄美大島本島にある瀬戸内町の集落をめぐり、
集落にまつわるさまざまなことを聞き取り調査していきます。
その活動の様子を
こちらのブログで報告していきます。
みなさんのシマ情報もお待ちしておりますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
調査日 : 2013年9月26日(木) 晴れ
調査場所 : 奄美大島 瀬戸内町 嘉徳集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町嘉徳 )
奄美.asia 調査員 / Y・K