2013年12月27日
勝浦 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる調査、
勝浦(かちうら)に行ってきました。
シマグチでの呼び方では、「カッチュラ」。
勝浦は、
瀬戸内町で山郷(やまぐん)と呼ばれるエリアにあります。
名瀬方面から国道58号線で瀬戸内町へ来ると、
網野子峠をすぎて最初に出あう集落。
中心部・古仁屋の2つ手前にあります。
世帯数は、99世帯、人口170人
(平成25年11月末現在)。
製糖工場があり、
サトウキビ栽培や畜産も盛ん。
十五夜豊年祭だけでなく、
旧暦5月5日のハマオレでは舟漕ぎ競争、
旧正月には、敬老会をしたりと
旧暦の行事を大切にしている集落です。
*
今回、勝浦の話を教えてくださったのは、
昭和27年生まれの、
義 富弘(ヨシ トミヒロ)さん。
内地の船会社で、
機関士や運航士などに従事したのち帰島。
郷土史家として多数の執筆をなさっています。
著書に「奄美夜話」、
共著に「しまぬゆ 1」「奄美学」(すべて発行は『南方新社』)などが。
また、郷土誌「しまがたれ」を主宰。
昔話や島の物事を収集記録しています。
勝浦はもちろん、
瀬戸内町・奄美を通して歴史や文化に精通しているかたです。

▲勝浦の案内をしてくださった義 富弘さん
まずは、義さんのご自宅にうかがい、
集落の小字や、山や海、川、岩など
基本的なシマでの呼び方などをうかがいました。
国道58号線沿いに勝浦集落を見ると、
集落は一瞬で終わってしまうような気がしてましたが、
海岸から山の麓まで、奥に深い集落。
小字も非常に多い土地でした。
例えば、「仕明」(シアケ・シャーケ)という小字。
薩摩藩政時代、収穫量を増やすため
新たに「開墾地」として”仕明られた”ことに由来。
他にも小字は、
地形に由来するものなどもたくさん見られ、
小字と照らしあわせてみると、とても面白いです!
そのほか、
義さんはご自身の体験をふまえ、
勝浦にまつわる
さまざまなことを教えてくださり、
本当に興味深いお話ばかりでした。
* *
ご厚意で、義さんも集落のなかも一緒に回って、
案内してくださることに。
国道沿いにある「ミャー」(広場・宮)と呼ばれる場所。
写真の電柱前あたりには土俵、
この敷地内には、旧公民館もありました。

▲「ミャー」。以前は、こちらで十五夜豊年祭や八月踊り、相撲などが行われていた
平成22年に公民館は新築し、移転。
現在は、そちらで豊年祭などを行っています。
*
このミャーの一画にあるのが、
共同墓「モーヤ」。
もともとは江戸時代後期の災害で散乱した人骨を
住民総出で集め、
共同墓としてこの場所に祀ったと伝えられています。
かつての「モーヤ」は、
石積みとセメントで横1m、長さ約2.5m、高さ1mほどの作りで、
茅葺き屋根づくり。
栴檀(センダン)の木で囲まれていて、
入り口には鳥居もあったそう。
前面には小さな祠があり、
勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」の人骨も祀られていました。
この勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」と
隣の阿木名集落の豪傑「ナガスネ(長臑)」は、
お互い山に陣取り弓矢で対決したという伝承があります。
現在は、昭和41年に建立された慰霊碑があり、
こちらの中には人骨が。
この慰霊碑が建立されるまでは、
十五夜豊年祭のときに、
勝浦の守り神として「フーティブリ」を拝んで祭りごとをしていました。

▲勝浦の国道沿いに慰霊碑が立つ、共同墓「モーヤ」
またミャーの回りの墓地には、
鹿児島の坊津町秋目出身の「満尾平兵衛」の墓があり、
享保12年と刻まれています。
瀬戸内町のなかでも最も古いお墓なのでは?とのこと。

▲満尾平兵衛の墓
このお墓は、山川石でできており、
特に江戸時代には身分の高い人々の墓石として利用されていたもの。
鹿児島の山川港近くで産出される凝灰岩です。
*
ミャーから、
昔は放射状に「カミミチ」がありました。
そのいくつかは現存。
いくつかはつぶれてしまっています。
カミミチその1。
現在は、ナシ。

▲手の方向が海とミャーをつなぐカミミチの名残
カミミチその2。
ミャーから国道を越えて、山へ向かうカミミチ。

▲現在も人も車も通れるカミミチ
カミミチその3。
現在はナシ。

▲ミャーからモーヤの横を通っていたカミミチの名残
カミミチその4。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の間を通っていたカミミチの名残
カミミチその5。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の横を通っていたカミミチの名残
カミミチその6。
ここはミャーから離れていて、つながっていないカミミチ。

▲かぼちゃアンダアゲを売っている「宝月堂」近く
勝浦簡易郵便局前の道路を挟んで向かいの土地は、
かつての「ウドン」(御殿)。
昔の公民館的な場所でした。
集会場があったので、義さんの年代は「カイバ」とも呼び、
さらに年配の世代は「ウドン」と呼んでいるそう。

▲「ウドン」(御殿)の跡
義さんが小学校の頃までは、「ウドン」で八月踊りをして、
ミャーで十五夜豊年祭や相撲をしていました。
昭和30年代になると、道路の交通量が激しくなってきたので、
八月踊りもミャーでやるようになったとか。
*
T字路での魔除けとなる「石敢當」。

正面の生け垣は、「カタハガキ」と呼ばれるもの。
沖縄の「ヒンプン」と同じで、魔除けと目隠しの役割などを持っています。

▲カタハガキの右側を通って入るのはお客さん、左へ行くのは御用聞きなど炊事場へ行く人
水道のない時代、
勝浦の人たちの大事な飲み水汲み場だった「ソーツ」。

▲ソーツ山の麓にあり
義さんが小学校2年生、昭和35年ぐらまでは、
毎朝6時ごろにソーツで水汲みが日課。
ブリキのバケツで、
家の水瓶をいっぱいにしてから学校へ行っていたそうです。
今まで一度も枯れたことがなく、
現在も断水になった時など、集落の人たちは利用しています。

▲澄んでいるソーツの水
平成22年に新築された立派な公民館。
ソーラーパネル付き。

▲保育所としても利用されており、公民館の前には、土俵も
力強い「勝浦公民館」の文字は、
なんとタレントの”ぐっさん”こと山口智充さんによるもの。
ぐっさんの母親が勝浦のご出身という縁で、
瀬戸内町観光大使として、町をPRしてくださっています。

*
新しい公民館の前を流れる細い川は、
ガソリンスタンドそばの港橋まで「ユゴ」と呼ばれています。
この港橋の上流を「フーコウ(大川)」、
港橋より河口を「ミナト(湊)」。
このあたりは昔はすごく深く、
明治16年頃マーラン船が入ってきていました。
また義さんが中学生ぐらいまでは、マングローブも生えていたそう。

▲港橋近く、ユゴからフーコウに合流するあたり
小字の屋川には、かつて「ウッコウ」という川があって
その名残の水路には、とても香りのいい菖蒲が生えていました。

*
義さんは、島に戻って来てから、
「食えるものは全部食うぞ」と、なんでも試しているそう。
島の人の食の傾向として、
「シマの人は、山のゼンマイやワラビなど山の植物を不思議とあまり食べない。
同じシダ類でも、他の植物でも
根っこからデンプンが取れるものをよく食べていた。
デンプンが取れれば外国産でもスッと島に受け入れられる」とのこと。
デンプンを採っていた植物としては、
ソテツはもちろんのこと、
カラスウリ、ニギャユリ、
キャッサバ、アルロートなどなど。
デンプンは餅にしたり、
味噌汁にダンゴとして入れて食べたりしていたそう。

▲あるお宅の庭で発見した、月桃のような葉っぱのアルロート
こちらも飢饉の時の救荒食として
澱粉をとっていた「リュウビンタイ」。

この「クロツグ」からは繊維を取り、
薩摩藩に上納していたことも。

▲義さんは子供の頃、木刀代わりにして遊んでいたそう。
柔らかいので叩いても大丈夫だったからだとか
クロツグの繊維。シュロのような手触り

勝浦は、現在も製糖工場があり、
サトウキビ栽培も盛んでした。

▲里山製糖工場の昔の敷地あたり。水車がここにあった
集落奥深くの山の中「ウフ」に流れる川。

▲さらに200mぐらい奥に大きな滝壺「ウシゴモリ」があるとのこと
ここには防空壕がありますが、
木が倒れたり、草に覆われて中には入られませんでした。

ほかに、面白いものを見せていただきました。
義さんがソーツヤマで拾った薬莢。
「たぶんアメリカ軍のものだろう」。
アメリカ軍は本土空襲で残った弾を全部、高知山あたりでばらまいていったという話で、
いまもけっこう残っているのでは?とのこと。

「アバス瀬」と呼ばれる岩。
誰かがアバス(ハリセンボン)を釣ったためにこの名がついたのかな?と義さん。

集落西側、対岸に見える小さな浜は「カラマ」。
岬を越えると網野子集落

義さんが編集・発行している郷土誌『しまがたれ』は、
昔話や聞きがたり、芸能、文化など、
さまざまなことが載っています。
義さんのシマへの想いがあふれていて、
面白く、また勉強になる話がいっぱい。
『しまがたれ』は、1996年に創刊。
その時すでに義さんは、
「先人達が培って来た島の文化が
我々の世代で途切れようとしています。
今発掘して書き留め引き継いでおかなければ
奄美固有の文化が永遠に閉ざされてしまいます」。
と、書いていらっしゃいました。
また「生の言葉を送って下さい」と。
われわれもその気持ちを引き継ぎ、
実体験を教えていただける
集落の聞き取り調査に望んでいきたいと思います。

▲「ムェーデ」(前瀬)。集落の目の前に見える岩々
瀬戸内町から名瀬に行く時に、
いつも通り過ぎるだけになっていた勝浦集落。
ゆっくりと散策すると、
見どころがいっぱいの集落でした。
義さんのお話も本当に面白くて、
みんな日がとっぷりと暮れるまでご案内していただきましたが、
まだまだ聞き足りないくらいでした。
義さん、ご協力ありがとうございました!
調査日 : 2013年11月6日(水)
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 勝浦集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町勝浦 )
< 参考文献 >
・「勝浦公民館建設記念誌」
・「しまがたれ」 奄美瀬戸内しまがたれ同好会編
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町勝浦集落」資料
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 / Y.K
勝浦(かちうら)に行ってきました。
シマグチでの呼び方では、「カッチュラ」。
勝浦は、
瀬戸内町で山郷(やまぐん)と呼ばれるエリアにあります。
名瀬方面から国道58号線で瀬戸内町へ来ると、
網野子峠をすぎて最初に出あう集落。
中心部・古仁屋の2つ手前にあります。
世帯数は、99世帯、人口170人
(平成25年11月末現在)。
製糖工場があり、
サトウキビ栽培や畜産も盛ん。
十五夜豊年祭だけでなく、
旧暦5月5日のハマオレでは舟漕ぎ競争、
旧正月には、敬老会をしたりと
旧暦の行事を大切にしている集落です。
*
今回、勝浦の話を教えてくださったのは、
昭和27年生まれの、
義 富弘(ヨシ トミヒロ)さん。
内地の船会社で、
機関士や運航士などに従事したのち帰島。
郷土史家として多数の執筆をなさっています。
著書に「奄美夜話」、
共著に「しまぬゆ 1」「奄美学」(すべて発行は『南方新社』)などが。
また、郷土誌「しまがたれ」を主宰。
昔話や島の物事を収集記録しています。
勝浦はもちろん、
瀬戸内町・奄美を通して歴史や文化に精通しているかたです。

▲勝浦の案内をしてくださった義 富弘さん
まずは、義さんのご自宅にうかがい、
集落の小字や、山や海、川、岩など
基本的なシマでの呼び方などをうかがいました。
国道58号線沿いに勝浦集落を見ると、
集落は一瞬で終わってしまうような気がしてましたが、
海岸から山の麓まで、奥に深い集落。
小字も非常に多い土地でした。
例えば、「仕明」(シアケ・シャーケ)という小字。
薩摩藩政時代、収穫量を増やすため
新たに「開墾地」として”仕明られた”ことに由来。
他にも小字は、
地形に由来するものなどもたくさん見られ、
小字と照らしあわせてみると、とても面白いです!
そのほか、
義さんはご自身の体験をふまえ、
勝浦にまつわる
さまざまなことを教えてくださり、
本当に興味深いお話ばかりでした。
* *
ご厚意で、義さんも集落のなかも一緒に回って、
案内してくださることに。
国道沿いにある「ミャー」(広場・宮)と呼ばれる場所。
写真の電柱前あたりには土俵、
この敷地内には、旧公民館もありました。

▲「ミャー」。以前は、こちらで十五夜豊年祭や八月踊り、相撲などが行われていた
平成22年に公民館は新築し、移転。
現在は、そちらで豊年祭などを行っています。
*
このミャーの一画にあるのが、
共同墓「モーヤ」。
もともとは江戸時代後期の災害で散乱した人骨を
住民総出で集め、
共同墓としてこの場所に祀ったと伝えられています。
かつての「モーヤ」は、
石積みとセメントで横1m、長さ約2.5m、高さ1mほどの作りで、
茅葺き屋根づくり。
栴檀(センダン)の木で囲まれていて、
入り口には鳥居もあったそう。
前面には小さな祠があり、
勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」の人骨も祀られていました。
この勝浦の豪傑「フーティブリ(大頭)」と
隣の阿木名集落の豪傑「ナガスネ(長臑)」は、
お互い山に陣取り弓矢で対決したという伝承があります。
現在は、昭和41年に建立された慰霊碑があり、
こちらの中には人骨が。
この慰霊碑が建立されるまでは、
十五夜豊年祭のときに、
勝浦の守り神として「フーティブリ」を拝んで祭りごとをしていました。
▲勝浦の国道沿いに慰霊碑が立つ、共同墓「モーヤ」
またミャーの回りの墓地には、
鹿児島の坊津町秋目出身の「満尾平兵衛」の墓があり、
享保12年と刻まれています。
瀬戸内町のなかでも最も古いお墓なのでは?とのこと。

▲満尾平兵衛の墓
このお墓は、山川石でできており、
特に江戸時代には身分の高い人々の墓石として利用されていたもの。
鹿児島の山川港近くで産出される凝灰岩です。
*
ミャーから、
昔は放射状に「カミミチ」がありました。
そのいくつかは現存。
いくつかはつぶれてしまっています。
カミミチその1。
現在は、ナシ。

▲手の方向が海とミャーをつなぐカミミチの名残
カミミチその2。
ミャーから国道を越えて、山へ向かうカミミチ。

▲現在も人も車も通れるカミミチ
カミミチその3。
現在はナシ。

▲ミャーからモーヤの横を通っていたカミミチの名残
カミミチその4。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の間を通っていたカミミチの名残
カミミチその5。
途中から、ナシ。

▲ミャーからお墓の横を通っていたカミミチの名残
カミミチその6。
ここはミャーから離れていて、つながっていないカミミチ。

▲かぼちゃアンダアゲを売っている「宝月堂」近く
勝浦簡易郵便局前の道路を挟んで向かいの土地は、
かつての「ウドン」(御殿)。
昔の公民館的な場所でした。
集会場があったので、義さんの年代は「カイバ」とも呼び、
さらに年配の世代は「ウドン」と呼んでいるそう。

▲「ウドン」(御殿)の跡
義さんが小学校の頃までは、「ウドン」で八月踊りをして、
ミャーで十五夜豊年祭や相撲をしていました。
昭和30年代になると、道路の交通量が激しくなってきたので、
八月踊りもミャーでやるようになったとか。
*
T字路での魔除けとなる「石敢當」。

正面の生け垣は、「カタハガキ」と呼ばれるもの。
沖縄の「ヒンプン」と同じで、魔除けと目隠しの役割などを持っています。

▲カタハガキの右側を通って入るのはお客さん、左へ行くのは御用聞きなど炊事場へ行く人
水道のない時代、
勝浦の人たちの大事な飲み水汲み場だった「ソーツ」。
▲ソーツ山の麓にあり
義さんが小学校2年生、昭和35年ぐらまでは、
毎朝6時ごろにソーツで水汲みが日課。
ブリキのバケツで、
家の水瓶をいっぱいにしてから学校へ行っていたそうです。
今まで一度も枯れたことがなく、
現在も断水になった時など、集落の人たちは利用しています。

▲澄んでいるソーツの水
平成22年に新築された立派な公民館。
ソーラーパネル付き。

▲保育所としても利用されており、公民館の前には、土俵も
力強い「勝浦公民館」の文字は、
なんとタレントの”ぐっさん”こと山口智充さんによるもの。
ぐっさんの母親が勝浦のご出身という縁で、
瀬戸内町観光大使として、町をPRしてくださっています。

*
新しい公民館の前を流れる細い川は、
ガソリンスタンドそばの港橋まで「ユゴ」と呼ばれています。
この港橋の上流を「フーコウ(大川)」、
港橋より河口を「ミナト(湊)」。
このあたりは昔はすごく深く、
明治16年頃マーラン船が入ってきていました。
また義さんが中学生ぐらいまでは、マングローブも生えていたそう。

▲港橋近く、ユゴからフーコウに合流するあたり
小字の屋川には、かつて「ウッコウ」という川があって
その名残の水路には、とても香りのいい菖蒲が生えていました。

*
義さんは、島に戻って来てから、
「食えるものは全部食うぞ」と、なんでも試しているそう。
島の人の食の傾向として、
「シマの人は、山のゼンマイやワラビなど山の植物を不思議とあまり食べない。
同じシダ類でも、他の植物でも
根っこからデンプンが取れるものをよく食べていた。
デンプンが取れれば外国産でもスッと島に受け入れられる」とのこと。
デンプンを採っていた植物としては、
ソテツはもちろんのこと、
カラスウリ、ニギャユリ、
キャッサバ、アルロートなどなど。
デンプンは餅にしたり、
味噌汁にダンゴとして入れて食べたりしていたそう。

▲あるお宅の庭で発見した、月桃のような葉っぱのアルロート
こちらも飢饉の時の救荒食として
澱粉をとっていた「リュウビンタイ」。

この「クロツグ」からは繊維を取り、
薩摩藩に上納していたことも。

▲義さんは子供の頃、木刀代わりにして遊んでいたそう。
柔らかいので叩いても大丈夫だったからだとか
クロツグの繊維。シュロのような手触り

勝浦は、現在も製糖工場があり、
サトウキビ栽培も盛んでした。

▲里山製糖工場の昔の敷地あたり。水車がここにあった
集落奥深くの山の中「ウフ」に流れる川。

▲さらに200mぐらい奥に大きな滝壺「ウシゴモリ」があるとのこと
ここには防空壕がありますが、
木が倒れたり、草に覆われて中には入られませんでした。

ほかに、面白いものを見せていただきました。
義さんがソーツヤマで拾った薬莢。
「たぶんアメリカ軍のものだろう」。
アメリカ軍は本土空襲で残った弾を全部、高知山あたりでばらまいていったという話で、
いまもけっこう残っているのでは?とのこと。
「アバス瀬」と呼ばれる岩。
誰かがアバス(ハリセンボン)を釣ったためにこの名がついたのかな?と義さん。
集落西側、対岸に見える小さな浜は「カラマ」。
岬を越えると網野子集落

義さんが編集・発行している郷土誌『しまがたれ』は、
昔話や聞きがたり、芸能、文化など、
さまざまなことが載っています。
義さんのシマへの想いがあふれていて、
面白く、また勉強になる話がいっぱい。
『しまがたれ』は、1996年に創刊。
その時すでに義さんは、
「先人達が培って来た島の文化が
我々の世代で途切れようとしています。
今発掘して書き留め引き継いでおかなければ
奄美固有の文化が永遠に閉ざされてしまいます」。
と、書いていらっしゃいました。
また「生の言葉を送って下さい」と。
われわれもその気持ちを引き継ぎ、
実体験を教えていただける
集落の聞き取り調査に望んでいきたいと思います。

▲「ムェーデ」(前瀬)。集落の目の前に見える岩々
瀬戸内町から名瀬に行く時に、
いつも通り過ぎるだけになっていた勝浦集落。
ゆっくりと散策すると、
見どころがいっぱいの集落でした。
義さんのお話も本当に面白くて、
みんな日がとっぷりと暮れるまでご案内していただきましたが、
まだまだ聞き足りないくらいでした。
義さん、ご協力ありがとうございました!
調査日 : 2013年11月6日(水)
調査集落 : 奄美大島 瀬戸内町 勝浦集落 ( 鹿児島県大島郡瀬戸内町勝浦 )
< 参考文献 >
・「勝浦公民館建設記念誌」
・「しまがたれ」 奄美瀬戸内しまがたれ同好会編
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査 旧古仁屋町勝浦集落」資料
・「瀬戸内町誌 民俗編」
奄美.asia 調査員 / Y.K
Posted by 水野康次郎 at 11:58│Comments(0)
│瀬戸内町の集落
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。