2014年03月19日
伊須 シマ(集落)めぐり
瀬戸内町のシマ(集落)をめぐる、聞き取り調査。
伊須(いす)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、イスィ。
奄美市名瀬から国道58号線で瀬戸内町へ。
網野子峠を過ぎて、伊須湾沿い。
阿木名集落からホノホシ海岸方向への近道(町道)を進むと
出会う集落です。

▲伊須集落を望む
伊須集落の人口は、35人、世帯数23世帯
(瀬戸内町役場町民課 平成26年2月末資料より)。
目の前の海は、
伊須湾と集落の名前がついているように、
伊須は、かつて重要な港の一つ。
薩摩藩時代には、黒糖などを積み出すための
大型の船が出入りする「居船場」の役割を果たしていました。
また「大島代官記」に記録されているのが、
明和8(1771)年6月のオランダ船の漂着。
乗組員たちは多数上陸し、
カミヤマの木を切って浜に小屋を建てたり、
石火矢(鉄砲)を撃ったりするなど村中が大騒ぎに。
早飛脚で知らせを受けた代官付役がかけつけ、
オランダ人が何か企てたら打ち殺す用意だったが、
そのような事態にはならずに7月1日に、
伊須から出帆していったといいます。

▲県道626号の嘉鉄・蘇刈線から伊須へ下りてきた所から東側が「仲田(ナカダ)」。
このあたりにも外国人がよく漂流していたという。
またハンガリー出身のベニョフスキーは、
ポーランドで革命運動を主導し、
ロシアで捕虜となり脱出。
その後南下し、四国などを経て伊須に上陸。
ベニョフスキーは、村人にもてなされ感激。
再び来島すると言い伊須を離れた、
との記録もあります(「ベニョフスキー航海記」)。
ベニョフスキーは虚言癖があったとも言われ
内容の真偽はさだかではないようですが、
彼の航海記によって、日本の中でも奄美大島の、
さらに小さな集落「伊須」がヨーロッパの人々の知る所になったことは、
非常にユニークな歴史だと言えます。
* *
今回は、伊須にお住まいのSさんにお話をうかがいました。
伊須区長を経験され、
現在は、農業をなさっています。
昭和7年生まれのSさん。
満82歳の年齢に驚いたほど、お若くて元気!
ポンカン、タンカン、フダンソウ、フル(葉ニンニク)などさまざまな野菜・果物を作り、
古仁屋のスーパーなどに卸しています。
またニンニクの塩漬けを
昔ながらのカメ(壺)で作っており、
都会からも引き合いがあるほど大人気だとか。

お伺いしたのは、
・地名、浜や岬の名前、その方言名
・伊須の昔の暮らしの様子、
・阿木名・古仁屋・嘉鉄との行き来
・製糖工場や塩炊き・炭焼き小屋
・古仁屋で人気だった自家製焼酎「伊須酒」
などについて。
Sさんは、伊須集落の中でも、
岬をひとつ阿木名側へ越えた入り江「土泊(ドハク)」のご出身。
現在、土泊には家はありませんが、
Sさんが子供の頃には、
15~16軒あったそうです。
小字「土泊(ドハク)」。

ここから阿木名小学校へ通ったそう。
塩炊き小屋もありました。
土泊の背後にある山は「ナガネヤマ」。

一部に「ケンムンヤマ」と呼ばれるところがあるが、
Sさんは、妖怪ケンムンとは会ったことはないそうです。
残念!
また土泊から、阿木名側へさらに一つ岬を越えた
「場波(バハ)」にも数軒家がありました。
一つ西側の入り江は、阿木名集落「芝(シバ)」になります。

*
伺ったなかで、
とても興味深かったのが、密造酒の話。
戦後から奄美群島日本復帰(昭和28年)までの間、
ほとんどの集落で密造酒造りが盛んに行われていました。
われわれの聞き取り調査では、
どの集落でも焼酎造りの話がでてきます。
材料は、ソテツ、サツマイモ、黒糖など。
蒸留する器具も鍋を利用するなどして、
自分たちで手作り。
ソテツは毒を抜かなければならず
とても手間のかかる作業。
また税務署の抜き打ち検査などで、
道具を持って行かれたりすることもあったり。
それでもいつの間にか焼酎造りは再開されたといいます。
厳しい時代の生活の彩りとしてでしょうか、
焼酎はかかせないものだったようです。
*
伊須でも、集落のほとんどの人が
焼酎造りをしていたとのこと。
自分たちで消費するだけでなく、
町の中心部・古仁屋で販売すれば、
「伊須酒(いすざけ)」と呼ばれ人気商品に。
焼酎のことを、
伊須では「デフェ」と呼びます。
(シマグチでは、よく「セェ」と言いますね)
一番最初に蒸留されるお酒を「ハナデフェ」、
50度ぐらいで、口に入れただけで燃えるくらいの度数。
最後のほうの飲めない酒は「ウトゥデフェ」。
ハナデフェや、3番デフェを合わせて
25度ぐらいのいい飲み口にして調整。
Sさんも、よく古仁屋まで売りに行ったとのこと。
一斗ニ升(21.6リットル)の焼酎を入れたガラス瓶を
ティル(竹の籠)に入れて背負い、
夜の山道、旧道の地蔵峠をひと目を忍びながら歩いて行ったり。
嘉鉄や蘇刈まで船で行って、
そこから古仁屋まで歩いて行ったり。

▲Sさんが、昭和20年代に使用していたガラス瓶。
Sさんの記憶では、昭和24年頃に一升2~3円で販売。
一斗ニ升で、よければ36円の儲け。
これは当時、相当大きい額。
(この頃のお昼が50銭ぐらいかなとSさん)
「魚はだいたい獲れていたし、
野菜も畑で作っていた。
肉を買うなんてことは考えもしなくて、
儲けたお金は畳を買ったり、家の生活費にほとんど使っていた」。
密造酒は、当時の人々の貴重な現金収入でした。
*
また密造酒をめぐるエピソードで面白いのが
網野子集落との話。
伊須の対岸には、
網野子(あみのこ)集落があります。

▲現在工事中の網野子トンネルがよく見えます。
網野子の人々は
密造酒を買いに伊須まで船でよく来ていました。
そのうちに網野子の人々も集落で焼酎を造りはじめ、
古仁屋で売りに行くようになったとか。
古仁屋で販売する時、
網野子の人のなかには、
「イー、ワンヤ、イスダリョウスカー(えー、わたしは伊須からですよー)」
と、伊須の人のふりして売る人もいたんだそう!!
これには、大笑い!
それだけ「伊須酒」が、
人気ブランドだった証拠ですね。
これは奄美が本土復帰前のお話。
戦後の厳しい時代を必死に生きていこうとする人々の様子が
目に浮かぶようです。
*
後日、うかがったお話をもとに、
集落の中を見て回りました。
墓地を背にすると正面にある
大きな山「タキヤマ」。
昔の墓地や、水源地、滝「ウティムト」があります。

タキヤマにある集落の水源地。

水源地をさらに奥に進むとある滝。
かつては「ウティムト」と呼ばれ、
神人数が「アミィゴ」(お水取り)をしていました。

タキヤマにある、昔使われていた墓地。
かなり荒れた状態。

昔の墓地に刻まれていた年代は、
確認できたなかで一番古いものは享保(年代は解読不明)。
写真のものは、宝暦三年(1753年)。
他に享和、明和、文化、文政のものもありました。

伊須集落の現在の墓地。

鉄塔の立っている山が「コーエン」と呼ばれるところ。
「伊須には神社はないが、ここには茶碗や神様へお供え物などあったらしく、
何かを祀っていたような場所」。

伊須集落の公民館と広場。
長年、十五夜豊年祭を開催していないそうで、
瀬戸内町では珍しく土俵がありません。

公民館そばにある祠。椿の木に囲まれています。

祠の中に祀られている石。
Sさんは「守り石」と呼んでいました。

祠の横にある2つの力石。
「ムェーイシ」とも呼ぶそう。

この石は、「150斤(90kg)と170斤(102㎏)」あり、
崎原島近くのティネンから担いで持ってきたものと伝わっているそう。
昔は、輪を描いて、
輪からはみださないように持ち上げて担ぐ、
力比べ競争をしていたこともありました。
集落の背後にそびえる山々。
右から「タキヤマ」「ナカバタケ」「コーチヤマ」。
山の麓に共同水汲み場「ソツ」がありましたが、
現在は周囲が荒れて近づけないようです。

集落と平行してある川の名残。

小型製糖工場跡地付近。

この細い川沿いには、
かつて5~6人の組合による製糖工場がありました。
最初は牛を利用し、動力へ移行。
「伊須一番、大島一番と言われていた家、たいへんな財閥だった」という屋敷跡。

集落内に立てかけてあるハブの用心棒。
パイプを電信柱にくっつけて、
用心棒が倒れないようにしています。いいアイデアですね。

瀬戸内町で盛んなフラの教室「アロハ・フラ・アマミ」。

町内のイベントなどでひっぱりだこです。
衣装もステキなんですよね。
嘉鉄・蘇刈方面(県道626号線)から伊須へ下りてくるとつきあたる場所。
このあたりに「マシュゴヤ(塩炊き小屋)」がありました。

すぐ東側の「仲田(ナカダ)にも、
塩炊き小屋は2軒。
また、製糖小屋も3~4軒あったのではとのことです。

塩は、古仁屋からも買いに来るほど、
じゃんじゃん売れていました。
焼酎と並んで貴重な現金収入ですね。
一番左の小さな島「崎原島」は、通称「ハナレジマ・ハナレヤマ」。
「サクバリィ」とも呼ばれます。干潮時には、歩いて渡れる島。

そこに突き出た半島が「ノグジィ」、
くびれあたりが「ティネン」。
集落看板。
蘇刈・嘉鉄まで4.3km、阿木名まで2.7km。

道が整備され阿木名が近くなりましたが、校区は嘉鉄小学校。
Sさんは、
「昔、伊須湾では、魚、スガリ(小さい島タコ)、ゾウリエビ、
アワビ、ウニ、イカがいっぱい獲れていた。
イセエビも浜のふち10mぐらいまでいたけど、
今はみんな消えてしまった」と、シマの思い出を懐かしそうに語ってくださいました。

伊須湾は、かつて重要な港として
さまざまな人が出入りし、
時には外国船が漂着。
その時の外国人がほうぼうのシマに行ってそのまま残ったとの説があります。
付近のシマジマにちょっとエキゾチックな顔立ちの方が多いのも
外国の人々の末裔かもしれない、なんてロマンのあるお話です。
そんな伊須の歴史をもっと深く知れたら面白いですね。
* *
島の人々は、さまざまな苦労をして
戦後から復帰前後、昭和を生き抜いてきました。
その時代の様子を
当事者から直接伺えること。
その光景が目に浮かぶような臨場感があり、
とても貴重な体験となりました。
Sさん、ご協力ありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査」
調査日 2013年1月9日(木)・15日(水)
調査集落 奄美大島 瀬戸内町 伊須(鹿児島県大島郡瀬戸内町伊須)
奄美.asia 調査員 Y.K
伊須(いす)集落の報告です。
シマグチでの呼び方は、イスィ。
奄美市名瀬から国道58号線で瀬戸内町へ。
網野子峠を過ぎて、伊須湾沿い。
阿木名集落からホノホシ海岸方向への近道(町道)を進むと
出会う集落です。
▲伊須集落を望む
伊須集落の人口は、35人、世帯数23世帯
(瀬戸内町役場町民課 平成26年2月末資料より)。
目の前の海は、
伊須湾と集落の名前がついているように、
伊須は、かつて重要な港の一つ。
薩摩藩時代には、黒糖などを積み出すための
大型の船が出入りする「居船場」の役割を果たしていました。
また「大島代官記」に記録されているのが、
明和8(1771)年6月のオランダ船の漂着。
乗組員たちは多数上陸し、
カミヤマの木を切って浜に小屋を建てたり、
石火矢(鉄砲)を撃ったりするなど村中が大騒ぎに。
早飛脚で知らせを受けた代官付役がかけつけ、
オランダ人が何か企てたら打ち殺す用意だったが、
そのような事態にはならずに7月1日に、
伊須から出帆していったといいます。

▲県道626号の嘉鉄・蘇刈線から伊須へ下りてきた所から東側が「仲田(ナカダ)」。
このあたりにも外国人がよく漂流していたという。
またハンガリー出身のベニョフスキーは、
ポーランドで革命運動を主導し、
ロシアで捕虜となり脱出。
その後南下し、四国などを経て伊須に上陸。
ベニョフスキーは、村人にもてなされ感激。
再び来島すると言い伊須を離れた、
との記録もあります(「ベニョフスキー航海記」)。
ベニョフスキーは虚言癖があったとも言われ
内容の真偽はさだかではないようですが、
彼の航海記によって、日本の中でも奄美大島の、
さらに小さな集落「伊須」がヨーロッパの人々の知る所になったことは、
非常にユニークな歴史だと言えます。
* *
今回は、伊須にお住まいのSさんにお話をうかがいました。
伊須区長を経験され、
現在は、農業をなさっています。
昭和7年生まれのSさん。
満82歳の年齢に驚いたほど、お若くて元気!
ポンカン、タンカン、フダンソウ、フル(葉ニンニク)などさまざまな野菜・果物を作り、
古仁屋のスーパーなどに卸しています。
またニンニクの塩漬けを
昔ながらのカメ(壺)で作っており、
都会からも引き合いがあるほど大人気だとか。
お伺いしたのは、
・地名、浜や岬の名前、その方言名
・伊須の昔の暮らしの様子、
・阿木名・古仁屋・嘉鉄との行き来
・製糖工場や塩炊き・炭焼き小屋
・古仁屋で人気だった自家製焼酎「伊須酒」
などについて。
Sさんは、伊須集落の中でも、
岬をひとつ阿木名側へ越えた入り江「土泊(ドハク)」のご出身。
現在、土泊には家はありませんが、
Sさんが子供の頃には、
15~16軒あったそうです。
小字「土泊(ドハク)」。
ここから阿木名小学校へ通ったそう。
塩炊き小屋もありました。
土泊の背後にある山は「ナガネヤマ」。

一部に「ケンムンヤマ」と呼ばれるところがあるが、
Sさんは、妖怪ケンムンとは会ったことはないそうです。
残念!
また土泊から、阿木名側へさらに一つ岬を越えた
「場波(バハ)」にも数軒家がありました。
一つ西側の入り江は、阿木名集落「芝(シバ)」になります。

*
伺ったなかで、
とても興味深かったのが、密造酒の話。
戦後から奄美群島日本復帰(昭和28年)までの間、
ほとんどの集落で密造酒造りが盛んに行われていました。
われわれの聞き取り調査では、
どの集落でも焼酎造りの話がでてきます。
材料は、ソテツ、サツマイモ、黒糖など。
蒸留する器具も鍋を利用するなどして、
自分たちで手作り。
ソテツは毒を抜かなければならず
とても手間のかかる作業。
また税務署の抜き打ち検査などで、
道具を持って行かれたりすることもあったり。
それでもいつの間にか焼酎造りは再開されたといいます。
厳しい時代の生活の彩りとしてでしょうか、
焼酎はかかせないものだったようです。
*
伊須でも、集落のほとんどの人が
焼酎造りをしていたとのこと。
自分たちで消費するだけでなく、
町の中心部・古仁屋で販売すれば、
「伊須酒(いすざけ)」と呼ばれ人気商品に。
焼酎のことを、
伊須では「デフェ」と呼びます。
(シマグチでは、よく「セェ」と言いますね)
一番最初に蒸留されるお酒を「ハナデフェ」、
50度ぐらいで、口に入れただけで燃えるくらいの度数。
最後のほうの飲めない酒は「ウトゥデフェ」。
ハナデフェや、3番デフェを合わせて
25度ぐらいのいい飲み口にして調整。
Sさんも、よく古仁屋まで売りに行ったとのこと。
一斗ニ升(21.6リットル)の焼酎を入れたガラス瓶を
ティル(竹の籠)に入れて背負い、
夜の山道、旧道の地蔵峠をひと目を忍びながら歩いて行ったり。
嘉鉄や蘇刈まで船で行って、
そこから古仁屋まで歩いて行ったり。
▲Sさんが、昭和20年代に使用していたガラス瓶。
Sさんの記憶では、昭和24年頃に一升2~3円で販売。
一斗ニ升で、よければ36円の儲け。
これは当時、相当大きい額。
(この頃のお昼が50銭ぐらいかなとSさん)
「魚はだいたい獲れていたし、
野菜も畑で作っていた。
肉を買うなんてことは考えもしなくて、
儲けたお金は畳を買ったり、家の生活費にほとんど使っていた」。
密造酒は、当時の人々の貴重な現金収入でした。
*
また密造酒をめぐるエピソードで面白いのが
網野子集落との話。
伊須の対岸には、
網野子(あみのこ)集落があります。

▲現在工事中の網野子トンネルがよく見えます。
網野子の人々は
密造酒を買いに伊須まで船でよく来ていました。
そのうちに網野子の人々も集落で焼酎を造りはじめ、
古仁屋で売りに行くようになったとか。
古仁屋で販売する時、
網野子の人のなかには、
「イー、ワンヤ、イスダリョウスカー(えー、わたしは伊須からですよー)」
と、伊須の人のふりして売る人もいたんだそう!!
これには、大笑い!
それだけ「伊須酒」が、
人気ブランドだった証拠ですね。
これは奄美が本土復帰前のお話。
戦後の厳しい時代を必死に生きていこうとする人々の様子が
目に浮かぶようです。
*
後日、うかがったお話をもとに、
集落の中を見て回りました。
墓地を背にすると正面にある
大きな山「タキヤマ」。
昔の墓地や、水源地、滝「ウティムト」があります。

タキヤマにある集落の水源地。

水源地をさらに奥に進むとある滝。
かつては「ウティムト」と呼ばれ、
神人数が「アミィゴ」(お水取り)をしていました。

タキヤマにある、昔使われていた墓地。
かなり荒れた状態。

昔の墓地に刻まれていた年代は、
確認できたなかで一番古いものは享保(年代は解読不明)。
写真のものは、宝暦三年(1753年)。
他に享和、明和、文化、文政のものもありました。

伊須集落の現在の墓地。

鉄塔の立っている山が「コーエン」と呼ばれるところ。
「伊須には神社はないが、ここには茶碗や神様へお供え物などあったらしく、
何かを祀っていたような場所」。

伊須集落の公民館と広場。
長年、十五夜豊年祭を開催していないそうで、
瀬戸内町では珍しく土俵がありません。

公民館そばにある祠。椿の木に囲まれています。

祠の中に祀られている石。
Sさんは「守り石」と呼んでいました。
祠の横にある2つの力石。
「ムェーイシ」とも呼ぶそう。

この石は、「150斤(90kg)と170斤(102㎏)」あり、
崎原島近くのティネンから担いで持ってきたものと伝わっているそう。
昔は、輪を描いて、
輪からはみださないように持ち上げて担ぐ、
力比べ競争をしていたこともありました。
集落の背後にそびえる山々。
右から「タキヤマ」「ナカバタケ」「コーチヤマ」。
山の麓に共同水汲み場「ソツ」がありましたが、
現在は周囲が荒れて近づけないようです。

集落と平行してある川の名残。

小型製糖工場跡地付近。

この細い川沿いには、
かつて5~6人の組合による製糖工場がありました。
最初は牛を利用し、動力へ移行。
「伊須一番、大島一番と言われていた家、たいへんな財閥だった」という屋敷跡。

集落内に立てかけてあるハブの用心棒。
パイプを電信柱にくっつけて、
用心棒が倒れないようにしています。いいアイデアですね。
瀬戸内町で盛んなフラの教室「アロハ・フラ・アマミ」。

町内のイベントなどでひっぱりだこです。
衣装もステキなんですよね。
嘉鉄・蘇刈方面(県道626号線)から伊須へ下りてくるとつきあたる場所。
このあたりに「マシュゴヤ(塩炊き小屋)」がありました。

すぐ東側の「仲田(ナカダ)にも、
塩炊き小屋は2軒。
また、製糖小屋も3~4軒あったのではとのことです。

塩は、古仁屋からも買いに来るほど、
じゃんじゃん売れていました。
焼酎と並んで貴重な現金収入ですね。
一番左の小さな島「崎原島」は、通称「ハナレジマ・ハナレヤマ」。
「サクバリィ」とも呼ばれます。干潮時には、歩いて渡れる島。
そこに突き出た半島が「ノグジィ」、
くびれあたりが「ティネン」。
集落看板。
蘇刈・嘉鉄まで4.3km、阿木名まで2.7km。

道が整備され阿木名が近くなりましたが、校区は嘉鉄小学校。
Sさんは、
「昔、伊須湾では、魚、スガリ(小さい島タコ)、ゾウリエビ、
アワビ、ウニ、イカがいっぱい獲れていた。
イセエビも浜のふち10mぐらいまでいたけど、
今はみんな消えてしまった」と、シマの思い出を懐かしそうに語ってくださいました。
伊須湾は、かつて重要な港として
さまざまな人が出入りし、
時には外国船が漂着。
その時の外国人がほうぼうのシマに行ってそのまま残ったとの説があります。
付近のシマジマにちょっとエキゾチックな顔立ちの方が多いのも
外国の人々の末裔かもしれない、なんてロマンのあるお話です。
そんな伊須の歴史をもっと深く知れたら面白いですね。
* *
島の人々は、さまざまな苦労をして
戦後から復帰前後、昭和を生き抜いてきました。
その時代の様子を
当事者から直接伺えること。
その光景が目に浮かぶような臨場感があり、
とても貴重な体験となりました。
Sさん、ご協力ありがとうございました。
<参考文献>
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会
・「瀬戸内町誌 民俗編」
・「平成10年度 瀬戸内町文化財保護審議委員会現地調査」
調査日 2013年1月9日(木)・15日(水)
調査集落 奄美大島 瀬戸内町 伊須(鹿児島県大島郡瀬戸内町伊須)
奄美.asia 調査員 Y.K
Posted by 水野康次郎 at 10:22│Comments(0)
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